本の記憶。 川村喜一著『ファラオの階段』
第二沈黙博物館の第三展示室、ファイリング資料編である。
資料はすべてテーマに分類されてファイルされている。この部分は人間で分類、吉本隆明、斎藤茂、山際淳司、百瀬博教、榎本昌治、長沢延子、加藤文太郎などの名前が見える。そのなかでまず、ここで紹介したいのは、早大エジプト探検隊の初代隊長を務めた川村喜一先生である。わたしが学生だった頃は文学部西洋史学科の助教授だった。
ファイル・ケースの中には[要返却]と書かれた、クリップで留めた書類が一束入っている。これが、大学でクラスメイトだった大内要三がわたしに貸してくれた書籍『ファラオの階段』に関する編集資料だ。
この川村先生の死亡告知は、一九七八年の十二月二十日に朝日新聞に掲載されたもの。わたしはこの新聞記事を見て、葬式に駆けつけた記憶がある。
〝失われた青春〟という言葉があるが、それがのどかで平和な学園生活という意味だとすれば、わたしにとって川村先生の記憶はまさしく〝のどかで平和な学園生活〟とつながっている。また、書籍『ファラオの階段』は一九七九年、当時わたしは週刊誌の記者として忙しく仕事をしていたころ、当時、朝日新聞の出版局に務めていた大内要三の手によって世に出た書だった。
わたしの大学生活は、いま思いかえせば、ちょっとひと言では言いがたい苦渋に満ちた、総体的に見てとても貧弱なものだった。美女も何人も登場するし、楽しいこともあったが、その楽しさがつらい記憶に打ち消されてしまう、残酷という言葉を使ってもいいかもしれない時代だった。その貧弱さというのは、ものを良く知らないという、主に自分の精神的な貧しさに起因していたのだと思うが、そのなかで、川村先生と過ごした時間だけが、大学生らしい勤勉さと真摯さをともなって思い出すことのできる唯一の彩りの豊かな時間である。
わたしの大学時代は大別すると、三つの時期に別れる。
まず、大学生になれたのがうれしくて、遊んでばかりいた時期、小遣い稼ぎのアルバイトもやり、そこそこに小金まわりもよかったころである。これが入学してから大学二年の秋頃までの一年半。それから二年生の後半からなのだが、一生懸命に勉強ばかりして、本ばかり読んでいた時期。これが大学三年の終わりまでの一年半。そして、四年生の一年間。最後の一年は授業はほとんどなく、学校をバリケード封鎖してストライキをやり、傍らで就職試験を受けた。最後の学園の記憶はバリケードストと機動隊導入に関係していて、授業も殺伐としたものだった。最後は卒業式もなく、それぞれの教室で担任の先生から卒業証書をもらって、終わりにした。気持ちは複雑だが、人並みに大学の恩師というと、当時まだ、文学部の助教授だった、のちに早大エジプト探検隊の初代隊長をつとめる川村喜一先生なのである。
話は教養課程から専門課程に進んだ昭和一九六八年の春にもどるのだが、この年の西洋史学科の専攻に進んだ学生は五十人いて、ゼミナールの選択は古代史、中世史、近現代史とそれぞれの時代の授業がふたつづつあり、そのなかからどちらかを選ぶという選択制になっていた。中世史、近現代史は学生の数がちょうど半々くらいに割れて問題なかったのだが、問題は[古代史]のゼミで、これはギリシャ史とエジプト史に分かれるのだが、ギリシャ史を選んだ人が四十三人もいたのに、エジプト史の方は七人しかいなかったのである。しかも、その七人のうち、三人は女の子で、男子学生は四人。わたしと大内要三と、名前しか覚えていないのだが、どこかの地方から出て来て学校の近くで下宿していたサクライという学生と、あと一人名前も覚えていない、途中で大学をやめてしまったヤツの四人だった。
ギリシャ史とエジプト史を比較すると、ギリシャ史は一年先輩の吉永小百合(彼女は第二文学部だったが)も卒論に選んだほどの(卒論執筆のためにわざわざギリシャまで古代遺跡を見学・研究に出かけたという話だった)人気テーマで、当時はギリシャ文明への憧れもあって、人気が高かったのである。ちなみに、吉永小百合だが、金曜日の午後3時ごろ、学部の図書室にいくと彼女に会えるという極秘情報をキャッチして、時間にあわせて彼女を見に行った記憶がある。黒いタイツをはいていて、清楚だがいい女だった。
教養課程にいたころのわたしというのは、まわりの女の子とかたっぱしからデートしてしまうというハレンチ・無節操な学生で、アルバイトでテレビ局のADなどもしていて、金回りもけっこう良かったのだが、二年生の夏(一九六七年の夏)、新宿のフーテン族の潜入取材というのを直接的に経験して、マスコミのシビアさと取材活動の持っているある意味での残酷さというのを身をもって体験したのだった。この経緯は2020年の夏、『全記録 スワノセ・第四世界』というノンフィクションを上梓しているから、よかったらそれを読んでいただきたい。
川村先生の授業は[いまのうちにもっとチャンと勉強しておかないと、社会に出てから通用しないぞ]と考え、マジメにいろいろと考えはじめて、勉強しようと決心した矢先のエジプト史だった。いまでこそ、古代エジプト史というと人気のテーマで、年中どこかで展覧会が開かれていて、吉村作治を思い出すが、あの人はじつは専門が美術史で、川村先生の傍系の弟子である。当時はギリシャとエジプトの人気の度合いは43対7くらいで、エジプトは全く不人気の少数派だった。わたしはあまり深く考えずにエジプト史を選んだのだが、先生が自分の専攻である、不人気テーマの[オリエント学]に学生が七人しか集まらなかったと思ったのか、それとも七人も集まったと思ったのか、わたしたちをとても可愛がってくれた。なにしろ学生が七人しかいなかったから、しかもそのうちの三人は女の子で、男の学生の一人はいつの間にか大学をやめてしまったから、全員で集まっても先生も入れて七人しかいなくて、学校の近くの喫茶店でお茶を飲みながら授業を受けたり、先生の研究室に集まってエジプトの古代遺跡発掘調査の話をしてもらったり、家に呼んでもらったり、ゼミのみんなで中禅寺湖に泊まり込みで遊びにいったり、けっこうマンモス大学とは思えないようなきめの細かさで先生とつき合い、楽しく過ごした。それこそいろんな話をして、将来の夢も聞いてもらった。
わたしは思い出して書いているのだが、先生の家は西武池袋線のひばりヶ丘駅のすぐそばの、新築の小さな分譲住宅で、若い奥さんと生まれたばかりの赤ちゃんがいた。郊外の楽しい我が家の典型のようなスイート・ホームだった。正月だったと思うが、みんなでお呼ばれして遊びにいって、酒を御馳走になった。いっしょにいったもう一人の男子学生のサクライが日本酒を無茶のみしたのか、酔っぱらって座敷で吐いてしまい、家中が大騒ぎになった。それから、すっかりサクライは先生に嫌われるようになってしまった。このとき、大内要三がいっしょにいたかどうか記憶がない。大内は学者一族で知られ、大内兵衛などが出ている大内の一族の人間(お父さんが早稻田の英文学者の大内義一だったと思う)で、学生運動的にも民青に所属していて川村先生の考えの埒外にあり、先生の愛情はいっしんに、そのとき酔ってもほとんど乱れなかったわたしに注がれるようになった。
先生はわたしが、どこも就職先がなかったら大学院に進学して研究室に残ってもいいと考えていることやできればどこか出版社に就職したいと考えていることを知ると「平凡社っていう出版社があるんだよ。そこの『太陽』という雑誌の編集長は僕が親しくしている友人で、いい学生がいたら頼むよといわれているから、僕が塩澤クンを彼に推薦してあげるよ。キミはチャンとした文章も書けるから、入れてもらえると思うよ」といってくれたのである。
わたしは平凡社の名前も当然知っていて、『日本残酷物語』や[中国古典文学大系]の『三国志演義』や『水滸伝』はわたしの猛烈な愛読書のひとつだった。当時の『太陽』の編集長というのは、そのあと評論家として健筆をふるう谷川健一さんだった。わたしはこの人が自分の大好きだった本の『日本残酷物語』の編者だったことを知っていて、そういう出版社だったら、絶対に入れてもらいたいなと思ったものだった。あとから考えてみると、こういうふうに大学の先生が学生の就職活動のときに自分がこれと見込んだ学生に力を貸すのは、教授の側も出版社とのつながりを深めるための重要な戦略のひとつで、わたしもそういう意味では、見込みのある学生というふうに思われたのかも知れなかった。かように、わたしは本当だったら、平凡社の試験を受けて、平凡社に入社する、という話になっていた学生だった。その経緯を思い出すと、こういうことである。
わたしはもともと考古学が嫌いではなかったから、少人数で親愛に満ちた雰囲気のなかで受けるエジプト史の授業も面白くないことはなかったのだが、マジメに勉強するようになって引きずり込まれるようにして一番熱心に勉強したのは、当時の世相だから当然なのだが、サルトルやヤスパースやハイデッガー、マルクス、毛沢東、吉本隆明や谷川雁、黒田寛一などなどの書いた本だった。つまり、いまの世界をどう見ればいいかということが書いてある本だった。勉強ばかりしているウチに、たちまちというか、あっという間に谷川健一から谷川雁方面へとまっしぐらに突進し、モノの考え方だけは過激派の学生へと変身していったのである。これは、当時のベトナム戦争などのこともあり、若者だったら、世界や自分のつじつまを真剣に考えれば、誰でもそういうふうになる、一九六八年的な状況のなかで、なるべくしてそうなったのだと思う。それで、川村先生からは「卒論のテーマを選ぶときは僕と相談してオリエント史のなかからテーマを選ばないか」といわれていた意向を無視して、自分がいちばん興味を持っていた資本主義の発生に関係のある中世ヨーロッパの都市論を選び、『資本論』の第3巻やルフェーブル、ピレンヌ、マックス・ウェーバーなどと格闘するようにして論文を書いたのだった。それでもって、川村先生とのつき合いはとだえた。
やがて川村先生は、こちらがバリスト・デモ仲間といっしょにいたせいもあるかも知れないが、キャンパスですれ違っても声もかけてくれなくなった。あとから考えると、ほとんどの学生がこんな教授との接触など、なにもなしで大学を卒業していくのに、幸運もあってせっかく恵まれたところにたどり着いたのに、それを自分の将来と結びつけて考えようとはしなかった。あとから考えて、俺という人間というのは、なんてバカだったんだろうと思ったものだ。わたしはクラス討論などでも、人の話は熱心に聞くのだが、自分ではほとんど発言しない学生だった。みんながどう考えているかは興味があるが、自分がなにを考えているかは言わないでいた。それは威勢のいいことはいくらでもいえるが、それを行動の規範にして生きるのは大変な作業だということが分かっていたからだと思う。
ある日、大内から「あなたが自分の意見を言ったのを聞いたことがない」と論難されたが、そのとき、わたしは「自分が一度口にしたことを守って生きる自信がないから発言しないのだ。みんな、戦おうとか威勢のいいことばかりいっているけど、それを最後まで貫き通せるのか」というような、座がしらけてしまうようなことを発言した記憶がある。これはマルクス主義とかとはまったく出所の違う、陽明学の知行合一みたいな考え方だった。大内はそれに「自分がひとつの立場を選んだら、それを最後まで守り通すのが政治運動なんだよ」というようなことを言った記憶がある。
わたしは政治活動はデモくらいは参加するが、本質的に好きではなかった。学生だったから、自分が興味のあることのなかにしかのめり込んでいけなかった。うまく立ち回ろうという発想もなく(これはいまでもあまりないのだが)、就職試験だって先生の推薦なんかもらわなくったってへっちゃらだいと思っていた。当時、[自己否定]という言葉があり、自分でさえも否定しなきゃいけないのに、学校の先生のコネで就職させてもらうなんて、そんな脆弱なことでどうする、というのがわたしの心意気だった。
四年生になって、ほぼ同時にバリケードストが始まり、やがて、世間では新卒学生の就職試験も開始されたのである。それでわたしも最初はあまり真剣にこのことを考えていなかったのだが、ふだん、「我々はもっと徹底的に権力に対して戦っていかなくちゃならないんだよ。もうじきやって来る革命のために身を挺して闘うべきなんだよ」みたいなことをいっているようなヤツが「オレ、いまから講談社の入社試験の願書、もらいにいくんだ」などと言いだして驚かされた。それからわたしも、[これはまごまごしていると就職先がないままで卒業ってことになるかも知れないぞ]と考えあぐねている最中に、目の前を流れるようにやってきた平凡出版の就職話にぶつかったのである。これは平凡出版(現・マガジンハウス)を平凡社と同じ会社だと勘違いしたのだが、平凡出版は平凡パンチや週刊平凡などを発行していた雑誌社で、ふたつはまったく別の会社だった。
[たらればもし]は若者の人生選択にはつきものの話だが、もし、わたしが川村先生の指示に従って、卒論のテーマもオリエント学のなかから選び、真剣に将来の相談に乗ってもらっていたら、無事平凡社に入社できたかどうかわからないが、多分、平凡社の試験は受けていたと思う。この年、たしか、早稲田の文学部から平凡社に入社した学生がひとりいたと記憶している。
大内要三は朝日新聞の出版部に就職した。西洋史学科の学生たちはみんな、マスコミ志望だったが、うまく就職試験を生き延びて、業界の大手に就職したのは、わたしと大内だけだった。
大学を卒業したあと、わたしは自分のことで手一杯だった。出版社で編集記者として仕事しながら、自分の培ってきた教養とか素養がまったく目の前の原稿書きに関係のない、一般的な大衆が読む原稿を書くという、何とも説明のつかない作業をくり返しながら、編集者生活を続けていたのだった。わたしは気が付かずにいたが、七十五年には、朝日新聞だと思うが、こんな記事が掲載されている。
川村先生はこの記事の出たあと、三年ほどして亡くなられたのだった。
年譜を見ると、六十九年からエジプトの発掘にかかわりはじめ、七十七年まで間歇的にマルカタ遺跡の発掘に従事している。川村先生の奥さんの沙世さんからも話を聞いているのだが、現地で食事なども万全でなく、何日もひどい生活をして、相当無理をしていた、ということである。
たぶん、その無理がたたっての発病だった。結腸潰瘍という話だが、ようするに癌だった。八ヶ月あまりの闘病生活のなかで川村先生は口癖のように、「僕は絶対に死なない、死ぬわけにいかない、必ず治ってみせる」といいながら病魔と闘い、死んでいったという。発掘調査でもめざましい発見があり調査隊長として早大エジプト調査隊の成果が認められかけたときの無念の死だった。享年48である。葬式のとき、わたしは大内と顔をあわせていると思うが挨拶はしなかった。彼は葬式に出て、すぐに川村先生の事績をひとつにまとめた本を作ろうと思ったのだという。
本は一周忌を目指して編集が行われ、翌年の十二月十日に発売になっている。本には末尾にギリシャ史の平田寛先生の後書きがあり、そこに朝日新聞社図書編集室への謝辞が書かれているが、大内の名前は省かれている。これは彼の編集者としてのスタンスだったのだろう。この本の新聞書評が残されている。
朝日新聞から川村先生の書籍が出版されたとき、わたしはその本をすぐ書店で買って読んだのだが、これはたぶん大内の仕業だろう思った。わたしは週刊誌の原稿書きで忙しく、めまぐるしく取材で飛び回っていて、大内の仕事をうらやましいと思う余裕もなかった。いま、ネットで彼の名前を検索すると、こういうプロフィール紹介が出てくる。
1947 年千葉県生まれ、元朝日新聞社出版本部編集委員。 日本ジャーナリスト会議会員、平和に生きる権利の確立をめざす懇談会運営委員、長崎の証言の会地方委員、練馬・文化の会代表委員。著書:『一日五厘の学校再建物語』2006 年『日米安保を読み解く 東アジアの平和のために考え るべきこと』2010 年『日米安保は必要か ? 安保条約の条文を読んで見えてきたこと』2011 年 (いずれも窓社)『あたご事件 イージス艦・漁船衝突事件の全過程』2014 年 (本の泉社)
いまから六年ほど前になるが、川村先生の思い出を原稿に書きたいと考えて、大内要三の連絡先を調べて、連絡を取った。かれは練馬に住んでいて、練馬の喫茶店で会って話をしたのだが、わたしがもの書きとしていまも仕事していることをチャンと知っていて、そのときにいちばん新しい作品だった、わたしが書いた『雑誌の王様』を見て、「いい本を書いているね」といって褒めてくれた。そして、きちんと保存していた川村先生の資料を貸してくれた。
わたしと大内はいろいろな考え方の違いはあるが、川村先生という、48歳という年齢の、働き盛りに死んだ熱血な学者への思いでひとつにつながっている。あのとき、大内がこの本を作ってくれて、本当によかったと思う。この本のおかげで、私たちは川村喜一という人間の記憶を共有できている。いまやわたしも大内もとっくに川村先生の亡くなられた年齢を超えて生きてしまった。大内は迷いなく人生を生きたのだと思うが、わたしは姿形を変えて生きることがルールのような無定型の人生を過ごしている。弁解すると、わたしは次々と新しいことに挑戦しているからそうなるのだと自分では思っているのだが、わたしも彼も日本の大衆文化のある一部分の装置として機能していることだけはまちがいない。いまは彼の人生をうらやましいとも思わないが、年をとると、考え方の違いよりもそういう共通の記憶を共有することの連帯感の方が重要なのだということが分かってくる。
わたしは忙しくて、これまで川村先生の原稿を書かずじまいできてしまっていて、またまた大内との約束を破る形になってしまっている。それもあってここでこの形の原稿を書いた。作家としての自分についていうと、なにをやり出すか分からないのが、わたしの仕事のスタイルになってしまった。自分では時代の本能みたいなものに従って、中心の部分は変わらず、表層のところで変容を重ねているつもりなのだが、これを変節だという人もいるかも知れない。大内にはいつまでもいまの路線で変節せず、元気に仕事をしていてほしいと思う。 (終わり)