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テキサス州アマリロ

みなさんが「テキサス」と聞いて思い浮かべる町はどこだろうか? 全米第4の都市で大リーグ・アストロズの本拠地であるヒューストン? NFLカウボーイズの本拠地で、ケネディ大統領が暗殺された街、ダラス? あるいは「ライブミュージックの都」(Live Music Capital of the World)としても知られる、州都オースティンだろうか? これら3都市とも、私にとってはそれぞれに興味深い街であり、実際にヒューストンは2度、ダラスは1度、少しの時間ながら訪れている。音楽的に一番興味深いオースティンについては、その音楽シーンについての認識が若い頃にはまだ薄かったため、残念ながら訪れたことはない。しかし、これらの都市に比べて一般にはあまり知られていないテキサスの町で、3度も訪れた場所がある。それが、アマリロだ。

アマリロは、テキサス州の北西部、隣接するニューメキシコ州とカンザス州に挟まれた鍋の持ち手のような形をした「パンハンドル」地域にある町で、この地域最大の都市だが、テキサス州全体では14位とさほど大きくはない。私がこの町の名前を最初に認識したのは小学生のときだった。それは、「テキサス・ブロンコ」(テキサスの荒馬)の異名をとったプロレスラー、テリー・ファンクとその兄・ドリー・ファンク・ジュニアのファンク兄弟が拠点にしていた町の名前としてだった。特に熱心なプロレスファンでもなかった私だが、昭和50年前後、子供にとってプロレスはゴールデンタイムにテレビ放送している身近なスポーツだった。加えて、彼らのカウボーイ然とした風情になんとなく憧れの気持ちがあったのかもしれない。そんな中で「アマリロ」という地名も、記憶の中に自然と刻まれたようだ。

漠然と記憶していただけのこの町の名前を強烈に印象付けられたのは、高校時代。当時、輸入盤セールで比較的安く購入したエミルー・ハリスの実質的セカンドアルバム『Elite Hotel』(『エリート・ホテル』)(1975年)の中の曲、そのものずばりのタイトル「Amarillo」によってだ。

エミルー・ハリス『Elite Hotel』(1975年)

エミルー・ハリスを最初に意識して聞いたのは、中3の頃(1980年)。当時の彼女にとってはやや異色のブルーグラス寄りのアルバム『Roses In The Snow』(『雪に映える薔薇のごとく』)だった。もっとも、その当時LPレコードを1枚買うことは結構大きな買い物だったので、FMラジオでエアチェックしたアルバムの中の数曲をカセットで聞いている程度だった。その後に出た『Evangeline』(1980年)や『Cimarron』(1981年)も同じような聞き方をしていたので、実際に初めて購入したエミルー・ハリスのアルバムが『Elite Hotel』だった。今思えば、『Evangeline』から『White Shoes』(1983年)くらいまでのエミルー・ハリスは、当時の夫でもあったプロデューサー、ブライアン・アハーンとのプロダクションがややマンネリ化し、あまり光るものが感じられない時期だった。そんな中で聞いた『Elite Hotel』は、感動的に素晴らしかった。裏ジャケの夕暮れの田舎町のグレイハウンド・バス・ディーポの写真も雰囲気満点だった。バブル前夜の80年代前半に高校時代を過ごしていた私にとって、このアルバムのコンテンツは、アメリカの南西部や中西部の田舎町には古き良きアメリカがまだ残っていると思わせるのに十分なものだった。アルバムにはグラム・パーソンズの作品「Sin City」(クリス・ヒルマンとの共作)も収められていたが、その曲のタイトルと裏ジャケの田舎町の写真が、私の勝手なイメージの中でオーバーラップした。(この曲で歌われている「罪の街」が大都市ロサンゼルスのことだと知ったのは、ずっと後になってからのことだ)

『Elite Hotel』の裏ジャケット

アメリカ西部の雰囲気たっぷりと私に感じさせたこのアルバムの冒頭曲が、「Amarillo」だった。私が買った米国盤には歌詞付きのインナースリーブはなかったが、「ピンボールマシン」や「ジュークボックス」など、断片的に聞こえる言葉から、アメリカ西部の田舎町のイメージが膨らんだ。ジェイムス・バートンのテレキャスターとハンク・デヴィートのペダルスティールが絡むホンキートンクスタイルのムードと、後半に控えめに入ってくるハーブ・ペダースンのバンジョーやミッキー・ラファエル(ウィリー・ネルソン・バンド)のハーモニカ。そして、カントリーガール然としたシャウトを聞かせるエミルーのヴォーカルも申し分なかった。ハーモニーヴォーカルは、リンダ・ロンシュタットとハーブ・ペダースン。西海岸カントリーロックの最良の形と言ってもいいだろう。

エミルー・ハリスは自分ではあまり曲を書かない人だが、「Amarillo」は当時彼女のバンドの主要メンバーだったロドニー・クロウェルと彼女との共作だ。曲が作られた経緯については、今回調べてみてもこれといった情報は見つからかなった。歌の内容はと言うと、アマリロの町外れで立ち寄った店のジュークボックスから流れてきたカントリーソングとそこにあったピンボールマシンに魅せられた彼が私の元を離れて行ってしまったという、女性の嘆き節。歌詞の中にドリー・パートンやポーター・ワゴナーといったカントリーシンガーの名前やジョージ・ジョーンズの曲名が出てくるが、内容そのものはさほど奥深いものとは思えない。

酒や音楽やギャンブルがきっかけで恋人が去って行くという話はカントリーソングにはよくあるテーマで、例えば、かの「テネシーワルツ」(エミルーもアルバム『Cimarron』で取り上げている)もその種の曲だ。「Amarillo」の歌詞の内容からすると、ここでの登場人物はピンボールをギャンブル目的で使っているようだが、賭博が合法化されているネヴァダ州ならいざ知らず、当時のアマリロにそのような場所があったのかどうかは調べてみてもわからなかった。ただ、いかにも西部っぽいワイルドなイメージを醸し出していることだけは確かで、荒野の真ん中にある誘惑の町といったイメージが湧く。エミルーは『Elite Hotel』でグラム・パーソンズ作の「Ooh Las Vegas」も再演しているが(初演は、実質的にエミルーとのデュエット集だったグラムの遺作『Greivous Angel』(1973年))、ラスベガスほど煌びやかなではないものの、アマリロにはそれに通じる西部の町のイメージが感じられた。

フォールンエンジェルズ時代のエミルー・ハリスとグラム・パーソンズ(Photo by Kim Gottlieb-Walker)

歌詞の中にアマリロが出てくる歌は、ほかにもいくつかある。中でも有名なのは、ナット・キング・コールから、チャック・ベリー、ローリング・ストーンズ、マンハッタン・トランスファー、ジョン・メイヤーまで、数多くの人たちにカバーされている「ルート66」("(Get Your Kicks On) Route 66")だ。シカゴからロサンゼルスまで通っていた旧国道66号線を歌ったこのスタンダード曲のブリッジ部分、ルート66が通っていた町の名前を歌うところで、セントルイス、ミズーリ州ジョプリン、オクラホマシティに続いて、アマリロが出てくる。(その後、ニューメキシコ州ギャラップ、アリゾナ州フラッグスタッフ……と続いていく)。

私がそんなアマリロを初めて訪れたのは、1987年の3月。何度か記事にしている学生時代の最初のアメリカ半横断一人旅の時だ。もっとも、その時は、単に「通り過ぎた」という言い方の方が正しいかもしれない。この時の旅では、ソルトレイクシティでレンタカーを借り、セントルイス、メンフィス、ナッシュビル、ニューオリンズ、ヒューストン、ダラス/フォートワースと回った。そこからソルトレイクシティに戻る地図上にちょうどアマリロがあった──そんな感じだった。もちろん、エミルー・ハリスの曲で知った町がどんなところか見たい気持ちもあってこのルートを選んだわけだが、町の中に特に訪れたい場所があるわけではなかった。

この旅の写真を収めたアルバムを見てみると、その前夜はテキサス州ウィチタフォールズのモーテルに泊まっていることがアルバムに挟まれているレシートからわかる。(ウィチタフォールズは、パット・メセニーの81年のアルバムのタイトルの一部になっている町だ)。そこから北西方向にアマリロへと向かう287号線は、荒野の真ん中をまっすぐに伸びるようなハイウェイだった。そのハイウェイの写真は何枚も撮っているのだが、肝心のアマリロの町の写真は1枚も残っていない。ハイウェイの上から町を眺めた程度だったと記憶しているが、さして印象に残る風景ではなかったのだろう。「Amarillo」というのは、元々スペイン語で「黄色」を意味する「アマリーヨ」という言葉だったそうだが、実際、赤茶けた、だだっ広い平原に雑然と広がっている町という印象だった。むしろその町自体よりも感動したのは、町を通り過ぎてそのまま西へと向かうインターステート・ハイウェイ40号線(I-40)の風景だった。青空の下、360度どこまでも続く荒野に真っ直ぐに伸びるハイウェイは、まさに私が長年憧れていた風景だった(当時はまだ21歳だったが……)。ちなみに、アマリロからアルバカーキー、さらにギャラップへと向かうこのI-40のルートは昔のルート66とほぼ同様であり、テキサス州からニューメキシコ州に入って比較的すぐのところには、リトルフィートの「Willin'」のサビの部分で歌い込まれる「トゥクムカリ」(Tucumcari)という町もある(当時の私はそのことを意識していなかったが……)

アマリロからアルバカーキーに向かうI-40の風景。
途中ハイウェイ沿いの荒野の真ん中にある「Wagon Wheel Motel」というモーテルで泊まり、モーテル併設のカフェでディナーをテイクアウトして部屋で食べた。(閉店間近で、テイクアウトしかやっていなかったのだと思う)

こうやって学生時代に「通り過ぎた」アマリロの町だったが、何の因果か、社会人になって再び訪れることになる。私は大学を卒業すると中堅商社に就職するが、そこでの配属が、畜産国から牛原皮を輸入し、それを国内の製革業者にコンテナ単位で販売するという部署だった。仕入れ先(輸入元)の中心は、世界最大の畜産国アメリカの「ビーフパッカー」と呼ばれる食肉加工業者だ。アメリカの肉牛の大半は「フィードロット」と呼ばれる屋外の広大な肥育場で育てられる。フィードロットは比較的気候が安定している広大な土地に造られるが、それらが集中していたのがネブラスカからカンザス、オクラホマ、テキサス北部一帯だった。なかでも、傷の少ない良質の皮として日本の製革業者に最も人気が高かったのが、当時全米最大のビーフパッカーだった会社のアマリロ工場から産出される牛皮だった。

テキサスのフィードロット(Wikipediaより)

就職してほぼ2年が経った91年1月、私は研修的な意味合いでの北米出張の機会を得た。全米各地の食肉工場を回り、そこでの皮の剥ぎ方や、保存処理の仕方、フィードロットのコンディション(地面がぬかるんでいたり、糞尿の処理状態が悪いと皮の品質に影響する)などを確認するのだ。ロサンゼルスからユタ、コロラドと回り(流石に今回は飛行機)、カンザス州南部のリベラルという町からはレンタカーを借り、テキサス・パンハンドルに入る。真冬なので片側2車線のハイウェイの1車線は凍結しており、実質片側1車線だった。学生時代同様、ラジオのカントリー局を聞きながらハイウェイを走る。午前中にカクタスという町にある工場を見学し、午後早い目にアマリロに入った。目指す工場は町外れにあった。当時の出張レポートが手元に残っているが「これまでに見たどのプラントよりも敷地が広大で、かつきれい」と記載されている。1日に5,300頭の牛を屠殺する工場だ。(その当時で、全米では1日に10万頭以上の牛が屠殺されていた)

工場見学は、午後3時頃には終了しただろうか。この時、自由時間があれば訪れたいと思っていた場所があった。学生時代には認識不足で見落としていたのだが(学生時代に携帯していた『地球の歩き方』にはアマリロの「ア」の字も載っていなかった)、その後、何らかの形でこの場所の情報を入手したのだと思う。それは、「キャデラックランチ」(Cadillac Ranch)だ。この名前を聞いてアメリカンロックに詳しい方なら「ははーん」と思われるだろう。ブルース・スプリングスティーンの80年の名作『The River』に収められていた曲「Cadillac Ranch」の由来になった場所で、廃車になった10台のキャデラックがノーズを地面に突っ込んだ形で原っぱの中に埋め込まれているアートインスタレーションだ。「キャデラックの墓場」とも呼べるようなこのインスタレーションは、アメリカの物質主義を象徴しているという点において、アンディ・ウォーホルの一連の作品にも通じるものがあるだろう。とりわけ、1日に5,300頭の牛を屠殺する工場を見学した後にここを訪れたのは、今思えば、我ながらなかなかアイロニカルだ。

ブルース・スプリングスティーン『The River』(1980年)のジャケットとインナースリーブ

キャデラックランチは、アマリロの西の外れにあった。それまでイメージしていた周りに何もない大平原というわけではなく、遠くには建物の影も見える。そういう意味では多少興醒め感はあったが、それでもその異様な光景はなかなか印象的だった。私が訪れた時には午後4時を回り、既に日が暮れかかっていた。地面には薄っすらと雪が積もり、周りにはひとっこ一人いなかった。入場料も案内板も何もない場所だ。興奮して何枚か写真を撮ったが、残念ながらそれらの写真は今1枚も見当たらない。

実は、2年後の93年にもう一度ここを訪れている。今度は私がニューヨークに駐在していた時期で、日本から来た得意先を件の工場に案内するために再びアマリロを訪れたのだった。工場訪問の後、同じように時間が余ったので、その得意先をキャデラックランチに案内した。今度は日本のゴールデンウィーク時期だったので、周りには蒼い草が生い茂り、落書きだらけのキャデラックたちも、前回見たときよりは幾分誇らしげに見えた。

93年に訪れた際のキャデラックランチ(ウィキペディアによると、1997年にこの当時の場所から3キロほど西の地点に移設されたという)

スプリングスティーンの「Cadillac Ranch」には、アマリロのキャデラックランチそのものの情景描写はない。見た目が派手でバカでかいこのアメリカ車を墓場に行くまで乗り回すぞという、これも少しアイロニカルなアメリカ讃歌ととればいいだろうか。

テキサスという州は、アラスカを除けば、全米一大きな州だ。面積は日本の2倍あるという。それだけに、州北部とメキシコ湾沿いの南部とでは気候風土や人種構成もかなり異なる。そんな中、子供の頃から描いていた「乾いた広大な平原にカウボーイのいる土地」といったテキサスのステレオタイプのイメージに最も近いと感じたのが、アマリロを中心とするこのパンハンドルエリアだった気がする。豊かな水流や森林とも、都会の煌びやかさとも無縁の荒涼とした大地──テキサスを代表するシンガーソングライラーのひとり、ナンシー・グリフィスも、初期のアルバム『Poet in My Window』(1982年)の中でそんなアマリロの空気感を感じさせる歌を残している。

"Heart Of A Miner"

ここ アマリロのハイウェイの周りは 収穫の時期
南フランスを夢見ながら
口笛を吹いて あなたをワルツに誘うわ
それでも まだだめだって言うの?

鉱脈を探す心が 最後の賭けに出る
鉱脈を探す心 奥底深く隠された想い
鉱脈を探す心 他に必要なものがある?
心をしっかりと掴むことができる宝だけ
それは見掛け倒しの金ではないの

"Heart Of A Miner" by Nanci Griffith
Translation by Lonesome Cowboy


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