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『アーバン・カウボーイ』への私的考察:(1)音楽ビジネス界に及ぼした影響

先般、グラフィックデザイナーのコッシュを取り上げた記事(下記リンク)の中で、映画『FM』が80年に公開された『アーバン・カウボーイ』の試金石になったと紹介した。今回はその点を掘り下げるとともに、『アーバン・カウボーイ』が米国の音楽ビジネス界に及ぼした影響について取り上げたい。また、その舞台となったホンキートンク「ギリーズ」を訪れた際のエピソードについても、追々触れてみたい。

1980年代は、映画とポップ・ミュージックの組み合わせが隆盛を極めた時代だった。そんな時代の潮流を生み出す力になったのが『FM』(1978年)、そして『アーバン・カウボーイ』(1980年)。3段跳びに喩えるなら、前者が「ホップ」、後者が大きな「ステップ」だった。映画とロックの組み合わせはプレスリーの時代からあったし、60年代末〜70年代初頭のニューシネマでは、ロックが若者たちの共感を呼ぶ上で大きな役割を果たしていた。しかし、ベトナム戦争が終結し、米国社会が享楽に身を委ねるようになる70年代後半以降、映画とポップ・ミュージックの組み合わせは、より商業的・打算的なものになっていったように思える。そのことが顕著に表れていたのがサントラ盤のあり方。多くのサントラ盤が映画の音響トラックという枠を超え、まざまなポップ・アーティストの新曲を集めたコンピレーションとなっていく。

先鞭をつけたのは、ジョン・トラボルタ主演の『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)だろう。この映画は、ビージーズやエリック・クラプトンらのマネージャーだったオーストラリア人、ロバート・スティッグウッドが送り出したものだった。スティッグウッドは、『ヘアー』や『ジーザス・クライスト・スーパースター』といった60年代末の劇場作品のほか、映画版『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973年)や『トミー』(1975年)なども手掛けてきた人物。元来、演劇や映画事業に通じていたわけだが、『サタデー・ナイト・フィーバー』のサントラ盤は、彼のレコードレーベル「RSO」から発売され、大ヒットを記録する。スティッグウッドは、『サタデー・ナイト・フィーバー』の後、映画版『グリース』(1978年)もヒットさせるが、三たびトラボルタを主演に据えた『Moment by Moment』(『年上の女』1978年)は失敗。ビージーズとピーター・フランプトンを主役に据えた『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』(1978年)も酷評され、ミュージシャンに慣れない演技をさせたことで、完全に墓穴を掘る形となった。

左:『Saturday Night Fever』(1977年)
右:『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』(1978年)

そんな中、虎視眈々とチャンスを窺っていたと思われるのが、イーグルスのマネージャーだったアーヴィン・エイゾフ。この頃、彼の会社がマネジメントしていたアーティストは、イーグルスのほかに、ダン・フォーゲルバーグ、J.D.サウザー、REOスピードワゴン、ジミー・バフェット、スティーリー・ダン、ボズ・スキャッグス、マイケル・マクドナルドら。そのエイゾフが最初に関わった映画が『FM』(1978年)だった。リンダ・ロンシュタットとジミー・バフェットのコンサート・シーンがフィーチャーされ、サントラ盤には、この二人のほか、イーグルス、ダン・フォーゲルバーグ、ジョー・ウォルシュ、ドゥービー・ブラザーズ、ボストン、フォリナーらの既存のヒット曲が盛り込まれた。それまでサントラと言えば、映画で使われているインスト曲がある程度含まれているのが一般的で、『サタデー・ナイト・フィーバー』ですら例外ではなかった。しかし、『FM』のサントラは、全曲ヴォーカル入りのロックチューン。そこにアーヴィン・エイゾフのしたたかな戦略が垣間見れるが、彼の名はなぜか一切クレジットされなかった。配給元のユニバーサルと何らかのいざこざがあり、エイゾフ自身がクレジットを拒んだようだ。『FM』はたしか日本未公開。当時中学1年だった私も、その存在は知らなかった。が、翌79年、ある雑誌に掲載されていたアーヴィン・エイゾフのインタビュー記事をたまたま読んだ。私はそこで初めてエイゾフのこと、そして、『FM』という映画の存在を知った。そこには、こんなやりとりが掲載されていた。

インタビュアー:
映画制作はどうですか? 『FM』なんて作って、色気ありそうですけど?

エイゾフ:
ああ、大いにあるね。今、ジョン・トラボルタ主演で映画を撮ってるんだ。舞台はテキサスで、テーマは『ならず者』の現代版。俺はディスコが大嫌いでね。ディスコは全世界で当たってるけど、所詮飛んだり跳ねたりしてるだけじゃないか!

(引用は、記憶によるもの)

当時、イーグルスにも、カントリー的なライフスタイルにも大いに関心を持ち始めていた私は、この情報に小躍りした。そして、翌80年、この映画『アーバン・カウボーイ』が発表された。日本での公開は数カ月遅れ、サントラ盤だけが先に発売された。エイゾフ自身のレコード会社「フルムーン」とアサイラムとの共同リリースで発売されたこのアルバムは、西海岸ロックをかじり始めた日本の少年にカントリーへの門戸を開く上で、理想的なエントリーモデルとなった。全米でも大ヒットし、ポップ・アルバム・チャート(キャッシュボックス)とカントリー・アルバム・チャートでともに1位を獲得した。

『Urban Cowboy』Original Motion Picture Soundtrack(1980年)

『FM』のサントラがスティーリー・ダンによる主題歌以外は既存のヒット曲で構成されていたのに対し、『アーバン・カウボーイ』の2枚組サントラは、2曲を除いて全てが新曲だった。フィーチャーされていたのは、エイゾフ傘下を中心とした、西海岸ロックの主要アーティストたち。さらには、アダルト・コンテンポラリー・チャートでクロスオーバー・ヒットを飛ばせるようなカントリー・アーティストたち(ケニー・ロジャース、アン・マレーら)。既存2曲のうち、1曲はイーグルスの「いつわりの瞳」だったが、今にして思えば、その頃のイーグルスはもはや一緒に新曲をレコーディングできる状態にはなかったのだろう(サントラには、別途、ジョー・ウォルシュのソロ作品「All Night Long」が収められ、シングルとしてもヒットしている)。もう一つの既存曲は、チャーリー・ダニエルズ・バンドの前年のヒット「悪魔はジョージアへ」。映画では、そのライブ演奏シーンがフィーチャーされていた。

映画のプロットは比較的単純だった。『サタデー・ナイト・フィーバー』に対抗意識を燃やしていたエイゾフが、パロディか当てつけかのように、『サタデー・ナイト…』の舞台をテキサスのホンキートンクに移し変えた──そんな内容だった。主人公たちが技を競うのは、ディスコダンスではなく、ロデオマシーン。ホンキートンクのフロアで男女が踊るカントリーダンスもフィーチャーされていた。

本作が公開された1980年のヒットチャートでは、ディスコ調の曲もまだ健在だった(例えば、リップス・インクの「Funkytown」、ブロンディの「Call Me」など)。とは言え、ディスコブームそのものには翳りが見え始めていた。一方で、ポップチャートにおいても、ケニー・ロジャースのような「MOR」(中庸)路線のカントリーシンガーたちが上位に食い込んできていた。この年は、タカ派のレーガンが当選することになる大統領選挙が行われた年でもあった。愛国心・保守志向の高まりからか、古き良きアメリカへの郷愁を抱かせるような、カントリーを素材とした映画や音楽が数多く登場していた。そんな潮流の中、『アーバン・カウボーイ』は、エイゾフの狙い通り、その流れに拍車をかける役割を果たす。

この作品をエンターテイメント/音楽ビジネス史的に見ると、そこには二つの意義がある。一つは、冒頭に述べた通り、「映画 × ポップミュージック = ビッグビジネス」という公式を実証したこと。実際、エイゾフ自身、これ以降、『Coast to Coast』(1980年)、『サンフランシスコ物語』(『Inside Moves』、1981年)、『Heavy Metal』(1981年)、『初体験/リッジモント・ハイ』(1982年)など、映画と音楽の組み合わせを量産していく。もっとも、この80年には、ロックやポップスをフィーチャーした映画が他にも数多く発表されていた。先に挙げたブロンディの「Call Me」はリチャード・ギアの出世作『アメリカン・ジゴロ』の主題歌だったし、オリビア・ニュートン=ジョンとELOをフィーチャーした『ザナドゥ』、アイリーン・キャラの主題歌がヒットした『フェイム』、ベット・ミドラー主演の『ローズ』、ポール・サイモンが自ら執筆・主演した『ワン・トリック・ポニー』、さらには『ブルース・ブラザーズ』など、百花繚乱の様相すら呈していた。ただ、さまざまなアーティストの新曲を集めたコンピレーション、そして、複数のシングルヒットを輩出したという点において、『アーバン・カウボーイ』はやはり傑出していた。そして、そのビジネスフォーマットは、その後『フラッシュダンス』(1983年)、『フットルース』(1984年)、『トップガン』(1986年)など、数多くの映画作品で踏襲されていく。

『アーバン・カウボーイ』からの全米シングルチャート成績(ビルボード最高位)

もう一つの意義は、この作品がLAのロック人脈にカントリー市場にアプローチする道を拓き、「ロック・カントリー」とでも言えるような音楽形態を生み出すきっかけとなった点だ。それは、この一時代前によくあった、ロックミュージシャンがカントリー的な音を求めてナッシュビルで録音するといったものとは違う。そういったアーティスティックな追求ではなく、もっとマーケティング的なアプローチだった。元来アメリカでは、ロックのラジオ局はロック、カントリー局はカントリーしか流さないといった棲み分けが徹底しており、市場が分割されていた。ロックとカントリーとでは、マーケティングや流通手段も別ものだった(日本における、J-POPと演歌と考えるとわかりやすいかもしれない)。普段ロックを聞いている若者層が意識的にカントリーを聞くことは稀だったし、彼らの多くにとって、カントリーは保守的な大人や田舎者が聞く音楽だった。

その点、70年代半ばにオースティンを拠点に盛り上がった「アウトロー・カントリー」は例外と言えるが、当時のナッシュビルのメインストリームに、ロック・オーディエンスにアプローチしようとする動きはほとんど見られなかった。MOR路線で成功していたジョン・デンバーや、ケニー・ロジャース、アン・マレーらは元々ナッシュビルの土壌から出てきた人たちではなかったし、ナッシュビルの中では比較的新しい感覚を持っていたアレン・レイノルズやデイヴィッド・マロイといったプロデューサーが作っていた音(クリスタル・ゲイルやエディ・ラビットら)も、少なくともその当時は「イージーリスニング」に近いMOR路線だった。

それらに比べ、『アーバン・カウボーイ』のカントリー系アーティストの楽曲は、今までのナッシュビルの音とは一味違っていた。象徴的だったのが、主題歌「Lookin' For Love」を歌ったジョニー・リーだ。テキサス出身のジョニー・リーは、映画の舞台となったホンキートンク「ギリーズ」で、オーナーのミッキー・ギリーとともに看板歌手だった人。とは言え、全米規模ではほぼ無名の存在。そんな彼をメジャーからデビューさせるにあたって、アーヴィン・エイゾフは自身のLAロック人脈を駆使して強力にバックアップしている。

「Lookin' For Love」にプロデューサーとしてクレジットされているのは、ジョン・ボイラン。シンガーソングライター、テレンス・ボイランの兄にあたる彼は、70年代初めにリンダ・ロンシュタットのプロデューサー兼マネージャーを務め、当時の彼女のバックバンド集めに尽力した人。そのバックバンドのメンバーたちがイーグルスとして独立する際も支援を惜しまなかった好人物だ。その後もカントリーロック系アクトのプロデュースに手腕を発揮していたが、76年のボストンのデビューに際して共同プロデューサーとして手を貸したことがきっかけで、エピック・レコードの重役に就任。その時期には、REOスピードワゴン、リトル・リバー・バンド、チャーリー・ダニエルズ・バンドらにもヒットをもたらしている。(前掲の「悪魔はジョージアへ」もボイランのプロデュース)

「Lookin' For Love」では、ボイラン自らアコースティック・ギターを弾いているほか、エレクトリック・ギターにはラリー・カールトンが参加。キーボードはビル・ペイン、ペダルスティールには元フライング・ブリトーズのスニーキー・ピート、ドラムスは70年代半ばにリンダのバンドにもいたマイケル・ボッツ。バックヴォーカルは、ローズマリー・バトラーとクラプトンのバンドにいたマーシー・レヴィ、そしてトム・ケリーという布陣。トム・ケリーは、ダン・フォーゲルバーグのバックを経て76年に独立したMOR路線のカントリーロック・バンド「フールズゴールド」の中核メンバーだった人。フォーゲルバーグやエイゾフと同じイリノイ出身で、エイゾフの「秘蔵っ子」とも言える存在だった。(ケリーは、その後、ソングライターとしてマドンナの「Like a Virgin」やシンディ・ローパーの「True Colors」など、数多くのヒットを手掛けるようになる)

この戦略が功を奏したのか、映画との相乗効果か、「Lookin' For Love」はカントリーチャートで1位を獲得しただけでなく、アダルト・コンテンポラリー・チャートで10位、ポップチャートでも5位の成績を収める。サントラ盤に続いて発表されたジョニー・リー自身のメジャーデビュー盤にも同じバージョンが収録されているが、こちらのプロデューサー・クレジットはアルバム全体のプロデュースを担当したジム・エド・ノーマンとなっている。実質的には、彼の仕事だったのかもしれない。

テキサス出身のジム・エド・ノーマンは、60年代末に「シャイロ」というスワンプ風味のカントリーロック・バンドでデビューした経歴の持ち主。詳しい方はご存じと思うが、このシャイロのドラマー兼ヴォーカリストがドン・ヘンリーだった。ジョン・ボイランがリンダ・ロンシュタットのために採用したバックバンドはシャイロが母体だったから、ボイランとノーマンは旧知の仲だったと考えられる。その後、ヘンリーがイーグルスで成功していく中、ノーマンはピアノやストリングス・アレンジでイーグルスの音楽に貢献していく(「いつわりの瞳」のピアノはノーマンによるもの)。それと同時に、彼は、アン・マレーのアルバムやジェニファー・ウォーンズの「Right Time of the Night」(1977年)など、カントリー風味漂う中庸路線のポップ作品をプロデュースしていく。『アーバン・カウボーイ』でもアン・マレーとミッキー・ギリーの楽曲をプロデュースしているが、イーグルスを通じてノーマンの才能をよく知っていたエイゾフにとって、この企画自体、最初から彼ありきのものだったのかもしれない。

Shiloh 『Shiloh』(1970年)
前列左から、ドン・ヘンリー(dr)、リチャード・バウデン(gu)、マイク・バウデン(b)、後列左からアル・パーキンス(gu, steel)、ジム・エド・ノーマン(key, gu)

こんな考察は今でこそできるが、中学時代の私に、ボイランやノーマンがプロデュースしたカントリーと当時の典型的なナッシュビル・サウンドの違いなどわかるはずもない。しかし、今改めて聞いてみても、やはり前者の音はロック・リスナーの耳にも受け入れやすいものに聞こえる。そのことは、ジョニー・リーのもう一つのサントラ収録曲「Cherokee Fiddle」(マイケル・マーティン・マーフィー作)に、より顕著に現れている。その違いは、例えば、前79年に出た、カントリー・ヴォーカル・グループ、オークリッジ・ボーイズによる同じようなミディアムテンポのヒット曲「Sail Away」あたりと比べてみるとわかりやすい。ストリングスや当たり障りのないギターで彩られた「Sail Away」のカラオケ的な音に比べ、「Cherokee Fiddle」でマイケル・ボッツが叩くタイトなドラムスやパンチの効いた女性バックヴォーカルには、よりバンド的なライブ感がある。カラっと乾いたその音は、南カリフォルニアで育まれたビート感のあるカントリー、ベイカーズフィールド・サウンドを継承しているとも言える。

こういった「バンド」感のあるサウンドは、80年以前のナッシュビル産のカントリーにはあまり見られないものだった。ナッシュビルは、あくまでもスター歌手を重視しており、バックの音はセッションワーク専業のスタジオメンで録音されていた。「ナッシュビル・キャッツ」と呼ばれていたそういったミュージシャンたちは、60年代〜70年代初頭のLAにおける「レッキング・クルー」のような存在だった。グループがあっても、それは、オークリッジ・ボーイズやスタットラー・ブラザーズのようなヴォーカル・グループか兄弟デュオがほとんどで、バンド形式は稀だった。そうした状況に変化が見え始めたのが、この80年頃からだった。

その最たる例が、アラバマだ。ナッシュビルのNo.1カントリー・レーベルRCAから80年にメジャーレーベル・デビューしたアラバマは、ギター2人に、ベース、ドラムスという4人編成のバンド。翌81年に発表されたセカンド『Feels So Right』で初めてカントリー・アルバムチャート1位を獲得したが、同アルバムはポップチャートでも16位に達する。バンドは、それ以降もカントリー、ポップの両方でクロスオーバー・ヒットを飛ばしていく。ファースト『My Home's In Alabama』は80年5月の発表なので、彼らのデビューが『アーバン・カウボーイ』の影響を受けたものとは考えにくいが、その後の彼らのポップフィールドでの成功については、『アーバン・カウボーイ』のヒットによる相乗効果もあったのではないだろうか。81年には、オークリッジ・ボーイズも、以前よりタイトな音になった「Elvira」で、キャッシュボックス・ポップチャートNo.1となるクロスオーバー・ヒットを飛ばしている。(ビルボードでは5位)

これ以降、ナッシュビルの音楽シーンからは、ソーヤー・ブラウン、ケンタッキー・ヘドハンターズ、シェナンドア、レストレス・ハート、ハイウェイ101など、バンド形式のカントリーアクトが続々と登場してくる。このようなバンド・スタイルも含め、70年代カリフォルニアの「カントリーロック」の残り香が漂う、「ロックカントリー」とでも言えるような流れがナッシュビルで形成される。この潮流のキーパーソンとなっていたのが、ジム・エド・ノーマンだった。『アーバン・カウボーイ』後のこういった流れについては、次回、ジム・エド・ノーマンにスポットを当てる形で取り上げてみたい。

そこへの伏線として、『アーバン・カウボーイ』のサントラに含まれている「シャイロ」繋がりのプロダクションを最後にもうひとつ紹介しておこう。この映画にはボニー・レイットのライブ演奏もフィーチャーされているが、サントラにも彼女の曲が2曲収められている。その2曲でバックヴォーカルを担当している一人が、リチャード・バウテン。前掲のシャイロのジャケット写真中央に写っている、リーダー格だったメンバー。彼は79年には「ブルー・スティール」というバンドを組んで、イーグルスの前座を務めていたこともある。ちなみに、ボニーの楽曲でのもう一人のバックヴォーカルは、ロブ・ストランドランド。彼はイーグルスの「Already Gone」をジャック・テンプチンと共作した人だ。ボニーの2曲は、やはり西海岸人脈のジェイ・ワインディングのプロデュースだが、彼女にしてはややカントリー寄りの音作り。当時ポップチャートで今ひとつヒットを出せなかったボニーに、カントリー寄りの路線を狙わせたのでは?という見方もできるかもしれない。

〜次回へつづく〜


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