ナンシー・グリフィス・トリビュートアルバム・レビューへの前書き(後編)
今年9月に発表されたナンシー・グリフィスへのトリビュートアルバム『More Than a Whisper: Celebrating the Music of Nanci Griffith』を紹介する前にナンシー・グリフィス自身のことを知っていただくコラムの後編。今回は、私がナンシー・グリフィスを本格的に聞くようになった1993年の話から。(前回の内容は下記リンクをご参照ください)
フォークソングライターたちに捧げられたカバー集『Other Voices, Other Rooms』
1993年の2月、私は当時の仕事でニューヨークに赴任した。到着したのは2月21日だったと記憶しているが、その約10日後の3月2日にナンシー・グリフィスのアルバム『Other Voices, Other Rooms』が発表されている。ニューヨークでも彼女の曲をラジオで耳にすることはほとんどなかったが、前回の記事で述べたサントラ収録曲「Cradle of the Interstate」以降初めてのアルバムとあって、期待を持ってこの新作を購入した。その前年92年には、エミルー・ハリスが自身のアコースティック・ライブアルバム『At the Ryman』でナンシーの作品「It's a Hard Life Wherever You Go」を取り上げており、その曲に惹かれたことも、私の中でのナンシー・グリフィスのイメージを高めていた。まだサブスクやYouTubeなどない当時(と言うよりも、インターネットそのものがなかった)、ラジオやテレビで曲に触れることができなければ、CDを買うしか方法はなかった。
この時ナンシーは新作のプロモーションツアーを行っており、そのニューヨーク公演が3月25日にカーネギーホールで開かれることになっていた。たまたまカーネギーホールの裏通りにあるマンションに住むことにした私は、当然「行くしかない!」と思ったはずだ。実のところあまりはっきりと憶えていないのだが、もしかしたら最初にコンサートのチケットを買い、その予習的にアルバムを買ったのかもしれない。
この時のアルバム『Other Voices, Other Rooms』は結果的に彼女のアルバムの中で最も成功した作品となったが、そこにはシンガーソングライター、ナンシー・グリフィスのオリジナル曲は1曲も収められていない。トルーマン・カポーティの小説(邦題『遠い声 遠い部屋』)からタイトルを拝借したこのアルバムは、彼女が影響を受けた新旧のフォークソングライターたちの作品を取り上げたカバー集だった。MCA後期のポップ路線で満足できる結果を得られなかったナンシーは、MCAを離れ、新たにエレクトラと契約。その第1作がこのアルバムだった。そこで彼女は、自身の初期の秀作のプロデューサーでウッドストック派のフォークミュージックの重鎮・ジム・ルーニーに再びプロデュースを依頼。彼女が取り上げた曲は、古くはウディ・ガスリーやウィーヴァーズ、カーターファミリーから、ボブ・ディラン、トム・パクスソン、ゴードン・ライトフットといった60年代「ニューフォーク」の旗手、彼女の地元テキサス出身のタウンズ・ヴァン・ザント、ジェリー・ジェフ・ウォカー、さらには、ジョン・プラインや若いシンガーソングライター、フランク・クリスチャンなど、新旧のフォークソングだった。
「フォークソング」という言葉を使ったが、このアルバムでの演奏は、ニューポート・フォークフェスティヴァルが活況を呈していた60年代初頭の時代の空気を感じさせるような、ノスタルジックなものではない。時代や地域性を超越した、普遍的なアコースティックミュージックと言っていいだろう。知名度のある曲は少ないが、彼女のファンであれば「なるほど」と思える選曲だ。もっとも、その頃の私はまだ彼女のことをさほど深く理解していたわけではなかったので、最初は「いいアルバムだなあ」くらいの感想だったかもしれない。
感動的だったカーネギーホール・コンサート
ただ、アルバムの当初の印象以上に心に残っているのは、カーネギーホールでのコンサートだ。カーネギーの客席はオペラハウスのように左右の階上席がステージ近くまで迫り込む構造をしているのだが、私の席はステージを右真上から見下ろす3階右の端だった。今までに200回前後コンサートを見てきたと思うが、座った席の位置をはっきりと憶えているものはそう多くない。そのくらい印象に残っているコンサートだったわけだ。
その理由は、ひとつにはカーネギーホールという由緒ある会場だったこともあるが、もうひとつ、自分の当時の心境によるところも大きかった。ニューヨークに赴任して1カ月。慣れない仕事をこなさなければならないプレッシャーもあったし、それ以上にストレスだったのは日本人サラリーマンの縮図のような駐在員ソサエティだった。当時、仕事が終わるとひと回り以上年上の先輩日本人駐在員たちと過ごす機会も多かった。そんな先輩たちや現法の社長は、大抵は居酒屋に飲みに行き、ゴルフと麻雀の話に明け暮れ、2軒目にはピアノバーで昭和歌謡を歌う。「ピアノバー」と言うと聞こえはいいが、要するに日本人のお姉さんたちがいるクラブだ。当時のニューヨークにはまだカラオケがあまりなかったので、生のピアノ演奏をバックに歌うのである。今思えば、結構贅沢な話だが、ピアノ弾きのレパートリーに「洋楽」はあまりなかったし、昭和歌謡どっぷりの先輩方を前に洋楽を歌うのも気が引けた。私のようにほぼ洋楽しか知らない人間にとって、これは結構なストレスだった。ははるばるニューヨークまで来て何をしてるのだろう?と結構落ち込んだものだ。そんな時、ニューヨークで最初に行ったコンサートがこのカーネギーホールだったのだが、ナンシー・グリフィスの歌声には、狭い日本人社会の煩わしさを忘れさせてくれるようなハートランド・アメリカの響きがあった。
その日のコンサートの曲目や曲順についてはあまり憶えていないが、1曲目か2曲目でエミルー・ハリスがゲストとして登場したのには歓喜した。エミルーは、アルバム『Other Voices, Other Rooms』冒頭のケイト・ウルフ作品「Across the Great Divide」でハーモニーを付けていたが、それがこのステージで再現された。アルバムには、エミルーのほか、ジョン・プライン、ガイ・クラーク、アーロ・ガスリー、オデッタ、チェット・アトキンス、さらにはボブ・ディランまで、多彩なゲストが参加しており、そのうち何人かがこの時のステージにも参加していたはずだ(ディランがいなかったことは確かだが、他の人たちについてはあまりはっきりと憶えていない)。このカーネギーホールから数週間後に行われたオースティンでのコンサートは後に映像化されたが(下の写真)、そこでも多彩なゲスト陣が出演している。恐らくはそれと同じようなステージ構成だったと思う。いずれにせよ、出演者たちのアコースティック音楽への愛情と、それを迎え入れるオーディエンスの温かさをしみじみと感じるコンサートだったことだけは確かだ。
このコンサートの後、私はその余韻を確かめるようにアルバム『Other Voices, Other Rooms』を繰り返し聞いた。その後出た前述のビデオも数年後日本に帰ってから繰り返し見た。最近は以前ほど頻繁には聞かなくなったが、それゆえにたまに聞くと、1曲目の「Across the Great Divide」が始まる瞬間に当時の感情が蘇り、目頭が熱くなる。
コンテンポラリーなアコースティックミュージックへと進化したアルバム『Flyer』
翌94年初め、ナンシーはアルバム『Other Voices, Other Rooms』でグラミー賞の最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバムを受賞。その年の9月にオリジナル作品としては3年振りとなる新作『Flyer』を発表する。この頃までには私も自分なりにニューヨークでの生活を楽しめるようになっていたが、それと同時にナンシーの初期作品もある程度聞くようになっていた。『Flyer』は恐らく昔からのファンをも満足させる内容だったと思う。初期のアルバムに比べるとコンテンポラリーな音だが、それは意図的にポップな路線を狙ったようなものではなく、年齢を重ねて色々な意味でより広い世界を見るようになった彼女から発せられた自然な音像だったように思う。
このアルバム発表時、彼女のステージを再び観ることができた。今度はニューヨークのリンカーンセンターにある屋外ステージでのフリーコンサートだった(ニューヨークでは、セントラルパークのほか、所々で時折フリーコンサートが開かれていた)。この時のステージについては、新作のタイトル曲を演奏したことと、彼女のMCが結構ユーモアたっぷりだったことくらいしか憶えていないのだが、無料では申し訳ないくらい素晴らしいコンサートだった印象は確かに残っている。
自分の気持ちに誠実に生きたナンシーの人生
その後、私は95年秋に日本に戻ったが、ナンシー・グリフィスは3年のインターバルの後、97年に新作『Blue Roses from the Moons』を発表。初期の名作『Once in a Very Blue Moon』(1984年)を彷彿させるタイトルやアルバムカバーに大いにそそられたが、ややアコースティック度が薄れた音のせいか、さほど心に響かなかった。ナンシーは翌98年にソングライターカバー集の続編となる『Other Voices, Too (A Trip Back to Bountiful)』を発表するが、こちらも、ゲスト陣を前面に出し過ぎたせいか、1作目に比べると彼女らしい繊細さに欠ける印象だった。
2作続けてアルバムの印象が今一歩だったことに加え、彼女に関する情報が日本では入って来にくいこともあって、私もこの辺りから彼女の動向を追いかけなくなってしまった。SNSが普及してきた2010年代になって彼女のFacebookページを覗いてみたが、情報が更新されている様子があまりなく、2012年のアルバム以降、ほとんど活動しているように見えなかった。そして、コロナ禍の2021年8月、唐突に彼女の死が知らされた。詳しい死因については発表されていないが、10年近く音楽活動をしていなかったことを考えれば、何らかの体調不良が続いていたのだろう。享年68歳とまだ若すぎる死だが、2000年代以降の写真では急激に老け込んだ印象もある。若い頃の姿と比べると本当に寂しくなってしまうが、彼女自身が淋しい思いをせずに晩年を過ごしたと信じたい。
コラム前編の冒頭にも書いたが、ナンシー・グリフィスはミュージシャン仲間からとても信望の厚い人だった。それは、彼女の音楽性にもよるし、人間性にもよるだろう。公民権運動の時代に青春を過ごした彼女は、人種・宗教間の争いや人権差別、環境問題などに対して厳しい目を向け、社会的公正を大切にする人だった。そのことは彼女の曲にも現れている。中でも象徴的なのが89年のアルバム『Storms』に収めれていた「It's a Hard Life Wherever You Go」だ。彼女の作品の特徴は第三者視点のストーリーテリングだと前回のコラムで紹介したが、この曲ではそういった手法は使われておらず、自身の体験と自戒の念を込めた思いがストレートに語られている。それは普遍的なメッセージであり、まさに今、ガザやウクライナで起こっていることの当事者や新保守主義の人たちに伝えたい内容だ。
そんなナンシー・グリフィスを信奉するアーティストや彼女の音楽仲間だった人たちが彼女の作品をカバーしたトリビュートアルバムが、今年(2023年)9月に発表された。次回はそのアルバムを紹介したい。