アルバムカバーを語る ─ コッシュ(Kosh)のデザイン
ここ数年来、若い人たちの間でも脚光を浴びてきているアナログレコード。その理由のひとつに、ジャケットを飾っておけるからというのがあるという。「ジャケ買い」は昔からあったが、ストリーミングでしか音楽を聴いたことがないような世代にとっては、LPのジャケットは新鮮でお洒落なインテリア・アイテムなのだろう。
アナログレコードで育った我々の世代はどうだったかと言えば、LPのジャケットは、中身の音楽と一体になった、いわば「総合芸術」の一部だった。ジャケットやインナースリーブを眺めながら、その作品の世界に思いを馳せる─そんな楽しみ方を普通にしていたものだ。そんな鑑賞スタイルが一般的でなくなったのは、80年代半ばにMTVが出てきてから。そして、それに続いてCDが登場した。レコード会社も、プロモーション予算の大半をミュージックビデオ(MV)に充てるようになる前には、結構な予算をアルバムカバーの制作に割いていた。今振り返ってみても、ゲートフォールド(見開き)のジャケットを含め、趣向を凝らしたアルバムカバーの多くは1970年代に生まれている。
そんな中でまず名前が挙がるアルバムカバー・デザインと言えば、レコードのパッケージを芸術の域にまで高めたイギリスのデザイナーチーム・ヒプノシスによるものが有名だが、個人的な思い入れという点ではほかに挙げたい名前がある。一般に「コッシュ」(Kosh)の名で知られる、英国人アートディレクター、ジョン・コッシュだ。とりわけ印象的だったのは、70年代半ばに米国に拠点を移して以降の彼のデザイン。コッシュのアルバムカバーは、その時代のロサンゼルスの空気感を反映したかのようで、当時の私にとっては憧憬の対象だった。そして、今振り返ってみると、それらはロックがビジネスとして巨大化していく過程を映し出しているようでもある。今回はそんなコッシュの作品をデザインの視点から掘り下げてみたい。
アップル・レコードの専属デザイナーとして
最初に彼の経歴を簡単に振り返ってみよう。ジョン・コッシュは、ロンドン生まれ。60年代半ばの彼は、ロイヤル・バレーやロイヤル・オペラ・ハウスのプログラムなどをデザインしていた。そんな時、彼の作品に目を留めたのがジョン・レノンとオノ・ヨーコ。二人はコッシュをアップル・レコードのクリエイティブ・ディレクターとして迎え入れる。前衛芸術家だったヨーコや美術学校出身のジョンは、デザイナー目線で見れば、とても難しいクライアントに思える。そんな二人のお眼鏡にかなったのは、彼らのような「アーティスト」も一目置くような、「デザイナー」としてのセンスがコッシュにあったからだろう。アップルでの最初の仕事は、ジョンとヨーコの「War Is Over (If You Want It)」のクリスマスカードと、それに続くプロモーション・キャンペーン・ツールのデザインだった。
アップル時代のコッシュの仕事で最も有名なのは、何と言ってもビートルズの名盤『Abbey Road』(1969年)のカバーだろう。もっとも、発売当時は名前がクレジットされていたわけでもないし、後の彼の作品に比べれば、コッシュらしい特徴はまだ見られない。実際、彼自身も「12枚あったパブリィティ・ショットの1枚を選んだだけ」と語っている。ただ、フロントカバーにバンド名もタイトルも載せなかったのは、彼のアイデアだったという。「ビートルズほどのバンドを一目見てわからない人なんて、洞窟にでも住んでる人だろう」というのが彼の考えだったそうだが、大元のレコード会社EMIからは大いにクレームが来たという。裏面にバンド名とタイトルを載せたのは、そのための妥協案だった。ちなみに、有名な「ポール死亡説」の元になったポールの裸足姿については、たまたま履いてきたサンダルがきつかったから脱いだだけ。フォルクス・ワーゲンのナンバープレート「28IF」につても、全くの偶然にすぎなかったそうだ。
拠点をLAに移し、超売れっ子に
続く『Let It Be』のカバーもコッシュのデザインだが、このアルバムが発表された70年5月にはビートルズは事実上解散していた。その後コッシュは、ジョンとヨーコのアルバムや、リンゴのソロアルバム、メアリー・ホプキンやビリー・プレストン、バッドフィンガーなどのアップル所属アーティスト、さらには、T.レックスやザ・フー、ハンブルパイといった英国人アーティストのカバーを手がけるようになっていく。
転機となったのは、70年代半ば、米国ロサンゼルスへの拠点変更だ。その理由について詳しくは知らないが、ピーター・アッシャーが呼び寄せたのではないかと、私は推測はする。かつてピーター&ゴードンの片割れとしてブリティッシュ・インベージョンの一翼を担ったアッシャーは、60年代末にアップル・レコードでA&Rを担当。その後米国に渡り、70年代半ば当時、ジェイムス・テイラーやリンダ・ロンシュタットのマネージャー兼プロデューサーとしてLAで頭角を現してきたところだった。そんな中、米国に渡ったコッシュが最初期に担当したのが、リンダのアルバム『Prisoner in Disguise』(『哀しみのプリズナー』1975年9月)のカバーだった。
渡米のきっかけとしてもうひとつ考えられる可能性は、ビートルズそしてアップルの広報担当だったデレク・テイラーだ。この頃、テイラーは再び米国に移って、ワーナーブラザーズ・レコードのマーケティングを担当していた。そんな中、リンダのアルバムとほぼ同時期にコッシュが手掛けたカバーが、ロッド・スチュワートの名盤『Atlantic Crossing』(1975年8月)。ソロとしてのロッドがワーナーブラザーズから出した最初の作品だ。このカバーでは、見開きジャケットの表裏にまたがるイラスト(ピーター・ロイドという人の作品)が印象的だが、大西洋を渡って本格的に北米に進出しようというロッドと、同じ時期にイギリスからアメリカにやってきたコッシュ自身との共通項を考えると、彼がどういう思いでこのデザインコンセプトを練ったのか、なかなか興味深いものがある。
これ以降コッシュは、怒涛のようにロックアーティストのアルバムカバーを手がけていくようになる。ロッド・スチュワートの次作『A Night on the Town』(1976年)、次々作『Foot Loose & Fancy Free』(『明日へのキックオフ』、1977年)もコッシュの作品だし、リンダ・ロンシュタットのアルバムカバーは、ほぼ彼女のキャリアを通して担当した。そして、リンダに限らず、ピーター・アッシャーがプロデュースを担当したアーティストたち(ジェイムス・テイラー、アンドリュー・ゴールド、ボニー・レイットら)や、アッシャーの右腕だったヴァル・ギャレイがプロデュースした作品(クレイグ・フラー&エリック・カズ、キム・カーンズ、ランディ・マイズナーら)のほか、70年代半ばからLAロック界の黒幕的存在となったアービング・エイゾフがマネージメントしていたアーティストたち(イーグルス、ダン・フォーゲルバーグ、ジミー・バフェットら)の作品。さらには、比較的レギュラー・クライアントだったのが、リンゴ・スター、ポインター・シスターズ、メリサ・マンチェスターといった面々。そして、特筆すべきは、ELOのあのUFOと一体となったロゴをデザインしたのも彼だった。
デザインの特徴 1: ストーリー性の感じられるコンセプト
1970年代前半、いわゆるウェストコースト・ロックのカバーデザインと言えば、まず思い浮かぶのは、ゲイリー・バーデン(デザイナー)とヘンリー・ディルツ(フォトグラファー兼自らもミュージシャン)のチームだ。デイヴィッド・ゲッフィン&エリオット・ロバーツ・マネジメント傘下のミュージシャン達(CSN&Y、ジョニ・ミッチェル、ジャクソン・ブラウン、イーグルスら)を中心に、当時の関係者たちの圧倒的支持を集めていた。バーデンたちの作風は、個人的にも親しいアーティストたちをどこかのロケ地に連れて行き、友人にしか見せないような彼らの自然な表情を捉え、それを絶妙の構図でカバーに仕立て上げる──そんなスタイルだった。音楽家と美術家の対等な関係から生まれるそのアプローチは、ヒッピー時代の共同体思想を継承するような「オーガニック」なものだった。
他方、70年代半ば以降にウェエストコースト・ロック関連のカバーを多く手がけるようになったコッシュの作風は、ぎりぎりまで「アーティフィシャル」さが気にならないレベルまで作り込む──そんな手法だった。バーデンたちのデザインには(イーグルスの『Desperado』など一部の例外を除いて)、中身の音楽やアルバムタイトルとの直接の因果関係はあまり感じられない。それに対してコッシュの作品は、タイトルやアルバムのコンセプトに準じたようなものが目立つ。その最たる例が、イーグルスの『Hotel California』(1976年)だろう。(イーグルスのアルバムカバー・デザインは、デビュー以来、『呪われた夜』(1975年)まではゲイリー・バーデンが手がけていた)
このアルバムのフロンカバーは、タイトル曲そのものを反映していると言っていいだろう。フロントカバーは、夕暮れの薄明かりの中に浮かび上がる石造りのホテル。窓からは、退廃的な雰囲気が漂う黄色い灯りが漏れている。そして、ゲートフォルードのジャケットを開くと、やはり退廃的な灯りの中に佇む、中上流階級と思しき人々。本来リゾート空間であるはずのホテルのロビーなのに、楽しそうな顔をしている人は誰もいない。そして、その中央に、ヒッピー時代の面影を引きずった、一見場違いのようなイーグルスの面々。2階の回廊からは、囚われた魔女のような女性が不気味な姿で階下を覗き込んでいる。ジャケットの裏面では、誰も人がいなくなったそのロビーの奥で、黒人清掃作業員が黙々と床を掃いている。
このアルバムはハリウッドの光と影を映し出すようなコンセプト・アルバムだったが、コッシュのデザインは、そんなコンセプトを暗示するものだった。彼のデザインは、ジャケットの表・裏だけでなく、中面見開きからインナースリーブ、時には盤面レーベルに至るまで、レコードを手にした者が聴覚と視覚の両方から作品に埋没してしまえるような、そんな効果があった。そのアプローチは、自らの感性でそれ自体が芸術として成り立つようなカバーを作り上げる「アーティスト」的なものではなく、クライアントが表現したいこと、あるいはターゲット・オーディエンスを見据え、その商品が売れるためのビジュアル化を担う「デザイナー」としての仕事の典型だった。そして、さらに面白いのは、そのビジュアル自体がとても「ハリウッド的」だったこと。ここで言う「ハリウッド的」とは、それが実は虚構の世界であるということだ。ゲイリー・バーデンのカバーが、ミニシアター系あるいはドキュメンタリー的な手作り感のある作品だったとすれば、コッシュのアルバムカバーはハリウッド大作の趣きだった。
実際、『Hotel California』は、コッシュが携わった仕事の中で最もコストが掛かったプロジェクトだったと彼自身が回想している。ドン・ヘンリーは、3〜4カ所のロケ地でのフルカンプ(完全試作)を要求してきたという(アルバムのクレジットでは、「Graphics by Kosh」「Art direction: Don Henley & Kosh」となっている)。そのため、最終的にビバリーヒルス・ホテルの写真と決定する前に、別の2カ所でも撮影をして、同様の試作品を作ったという。中面と裏面に使われたロビーの写真は、別のもう少しランクの落ちるホテルに親類縁者を集めて撮影された。スタジオ以外の場所にこれだけ大勢の人たちを集めて、ライティングからメイクまで全てをセッティングするのには、相当な時間と労力を要しただろう。さらにコストが掛かったのが画像加工。まだ、コンピューターのない時代だ。粒子の粗い仕上がりになるよう撮影した写真にエアブラシなどを用いて手書きのホテルロゴをイルミネーションとして合成するのには、計り知れない労力(=コスト)を要したという。ただ、当時の予算は青天井だったので全然気にすることはなかった、とコッシュは回想している。
ちなみに、ビバリーヒルズ・ホテルの外観撮影は、同ホテルに許可を得て行われたわけではなかったという。そのため、アルバム発売後、ホテル側は訴訟も辞さない構えだったらしいが、イーグルスのマネージャー、アービング・エイゾフが「おたくの帳簿を見ると、アルバム発売後、宿泊者数が35%も伸びてるよね。それでもいいの?」と迫り、ホテル側が訴訟を断念したのだという。
コンテンツと連動したストーリー性を感じさせるこのようなプロダクションは、コッシュの真骨頂だった。他にも印象的だったものをいくつか挙げてみると……
Linda Ronstadt "Simple Dreams"(『夢はひとつだけ』 1977年)
全米1位に輝き、リンダの全キャリア中最大のセールスを記録したこのアルバムは、グラミー賞の「最優秀レコーディング・パッケージ」も獲得している。この当時、リンダは31歳という女盛り、そして、腕利きのバンドメンバーを従えて最高のライブ・パフォーマンスを発揮していた時期だった。アルバムタイトルの元となったJ.D.サウザー作の曲「Simple Man, Simple Dream」では、「もしも私が恋に落ちたなら あなたを殺したくなるか 誠意を尽くすか どっちかだわ」と歌われる。そんなドキっとするような色気のある女性の姿が、バックステージの情景をモチーフにして見事に再現されている。
ちなみに、次作『Living in the USA』(『ミス・アメリカ』1978年)もデザイン的には同じ路線。そちらでは、これもタイトルを象徴するように、アメリカの物質社会を謳歌する、健康的なLAウーマンとしてリンダの姿が描かれている。
Jimmy Buffett "Son of a Son of a Sailor"(1978年)
ジミー・バフェットは、70年代半ば以降、フロリダの先端キーウェストを拠点に「海の男」としてのイメージを定着させつつあった。祖父が蒸気船の船長だったという自らのテーマソング的な曲をタイトルに冠したこのアルバムでは、コッシュがバフェットを海賊船の船長に仕立て上げている。中面見開きの作り込みは『ホテル・カリフォルニア』以上で、まるで映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのワンシーンを見るかのようだ。ジミー・バフェットは、このアルバム制作に先立って、新たにマネジメントをアービング・エイゾフに任せるようになったが、コッシュの起用もエイゾフの差し金と思われる。特にクレジットはないが、中面でジミーの右側にいる、電話を何本もかけている海賊の親分は、おそらくアービング・エイゾフだろう。
REO Speedwagon "Hi Infidelity"(『禁じられた夜』 1980年)/ "Good Trouble"(1982年)
REOスピードワゴンは、アービング・エイゾフがまだイリノイ大学の学生だった頃、同じ大学に属していた縁で、最初にマネジメントを担当したアーティスト。ただし、レコードデビュー以降のマネジメントは、イリノイ大の同輩だったジョン・バルックという人が担当していたようだ。しかし、バンドにとっての一大出世作となった80年作品『Hi Infidelity』では、エイゾフの「テコ入れ」があったように思える。今回、改めてクレジットを見てみると、曲作りやバックヴォーカルにトム・ケリーやリチャード・ペイジの名前も見られる(ケリーもイリノイ出身で、70年代半ばにイーグルス・ブレーンのバックアップでデビューしたフールズ・ゴールドのメンバーだった人。80年代にはソングライターとして、シンディ・ローパーの「True Colors」やマドンナの「Like a Virgin」など、数々のヒット曲を手掛けている)。そして、このアルバムのアートディレクター兼デザイナーとして起用されたのが、コッシュだった。
タイトルの『Hi Infidelity』は、「不貞」を意味する「infidelity」とオーディオ用語で「高忠実度」を意味する「high fidelity」(Hi-Fi)をかけたもの。カバーデザインはその言葉遊びを絵にしたもので、男が不倫の現場でHi-Fiステレオでレコードをかけている図。続く82年作『Good Trouble』では、ツアーバンドとして鳴らしてきたREOを象徴するように、ツアー先のホテルで大騒ぎして迷惑をかけているバンドをイメージさせる絵柄が作り込まれている。この辺りのアルバムにはシリアスなメッセージ性もないし、見開きでないことも含め、予算も70年代に比べて潤沢でなくなってきていることが想像できる。そういった意味で言えば、ハリウッドB級作品の趣きだ。
デザインの特徴 2: 濁色を使った、豊潤な色使い
コッシュのデザインには、配色の面でも特徴がある。背景に使われる色に黒や濃色が多いことだ。濃い背景色に白やカラーの抜き文字を使用することで、テキストの視認性を高めるとともに、ある種のリッチな雰囲気が演出されている。カラーと言っても、日本のスポーツ新聞で使われるような、彩度の高い原色はほとんど使われない。少し彩度を下げた(=若干濁りのある)落ち着いた華やかさだ。写真を全面に使ったデザインでも、戸外で撮ったような明るい印象の写真は少なく、どこかシアトリカルな印象のものが多い。駆け出し時代にオペラやバレー関連の仕事をしていた素地によるのかもしれないが、そういった色彩の奥行きは、物質的に満たされているような感覚を見た者に与えるように思える。そして、それをさらに助長していたのが、構図全体を囲む囲み罫や、タイトルやグリッド周りに使われる飾り罫。そういったきめ細やかなあしらいが、紙面にある種のレイヤー感(奥行き感)を生み出し、「豊か」な感覚をさらに高めていた。
デザインの特徴 3: グリッドが明確なレイアウト
レイアウト(配置)にも特徴がある。特に中面や裏面で顕著なのが、グリッドが明確なことだ。グリッドとは、格子状の枠を作るような形で紙面を分割し、それに沿って要素を配置していくための一種のガイドラインのようなもの。新聞や雑誌の紙・誌面がわかりやすい例だが、グリッドに沿ったレイアウトは要素が整理されて見えるため、内容が頭に入ってきやすいし、安定感があって落ち着いて見える。落ち着いて見えるという点で言うと、黄金比(約5:8)や青銅比(1:3.303)に準じる比率でグリッドが組まれているものも目立つ。グリッドは、時に斜めに組まれることもあり、それもまた少し非日常的なおしゃれ感を演出していた。
デザインの特徴 4: タイプセッティングの妙
タイプセッティングの妙もコッシュの特徴だ。特筆すべきはイタリック(斜体)の使い方で、とりわけ、ミュージシャンのクレジット欄などで効果を発揮している。イタリックとローマン(正体)さらには、それぞれのボールドタイプ(太字)を組み合わせることで、例えば、曲名と演奏者名、その担当楽器などの表記にメリハリを付けており、一目見てわかりやすい。オールキャップス(全て大文字)とそうでない表記との組み合わせもうまく活用していた。70年代中盤以降、とりわけシンガー・ソングライター関連やAOR系のアルバムでは、バックにどんなミュージシャンが入っているかでその作品自体が語られることが多くなっていったが、コッシュのデザインはそんな風潮にも一役買っていたと思う。商品の内容情報を見やすく伝えるという意味においては、ある種プロダクト・パッケージ的なアプローチとも言える。
アルバムの顔となるアーティスト名とタイトルの表示では、スクリプト書体(手書き風書体)と正体の組み合わせもコッシュに顕著なスタイルだったし、曲名や歌詞の表示部分では、アイキャッチとして効果的なドロップキャップ(=単語の最初の1文字または数文字を一際大きく見せる手法)も彼の得意技だった。
ここまで述べてきたコッシュのデザインの特徴が凝縮された作品として最も分かりやすい例が、映画『FM』(1978年)のサウンドトラックだ。この映画はアービング・エイゾフが初めて映画制作に関わったもので、FMラジオ局を舞台にした内容ゆえ、当時のLA産ロックを中心とした楽曲がコンピレーションのような形でフィーチャーされている。当時の日本では未公開のはずで、私も未見だが、映画にはトム・ペティやREOスピードワゴンが登場するほか、リンダ・ロンシュタットとジミー・バフェットのライブ演奏シーンもある。
この映画が試金石となり、エイゾフは2年後の80年に映画『アーバン・カウボーイ』を発表。自身がマネジメントするアーティストたちを映画そしてサントラ盤というメディアを通じてマーケティングしていく。その後の十数年間を通じてひとつのビジネスモデルとなった、映画とポピュラー音楽の多少無造作とも思えるカップリングの先駆けとなった作品だ。音楽産業と映画産業の融合という、一見とても煌びやかな、LAならではのエンターテイメントの世界。そして、この後、音楽の映像化が進んでいくきっかけの一つとなったハリウッド作品。ラジオ局を舞台にしたそんなサウンドトラックのカバーデザインをコッシュが手掛けたことは、何とも象徴的だ。