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ニューポートR&Bフェスティバル 1995

サム&デイヴのサム・ムーアが亡くなった。2025年1月10日、享年89歳。私はサム&デイヴの音楽に生で触れることができた世代ではないが、サム・ムーアのソロ・ステージは体験したことがある。今回はその時の記憶を辿ってみたい。

Sam & Dave 『The Best of Sam & Dave』(1969年)

時は、1995年7月29日土曜日。場所は、米東海岸ロードアイランド州ニューポート。その地でその年初めて開催された「ニューポートR&Bフェスティバル」のステージだった。ニューポートと言えば、ジャズ・フェスティバルやフォーク・フェスティバルで名前をご存じの方も多いだろう。古くから保養地・別荘地として栄えたこの海辺の町は、白人富裕層が集まるちょっと「ハイソ」なところ。日本で喩えるなら、葉山とか逗子のような感じだろうか。そんな土地柄とリズム&ブルーズとは一見不釣り合いに思えるが、ニューポート・ジャズ・フェスとフォーク・フェスの主催者が、当時ワシントンにあった非営利団体「リズム&ブルーズ(R&B)ファウンデーション」に協力する形で実現したのがこのイベントだった。

1988年に創設されたR&Bファウンデーションは、正当な印税を得られずにいた1940〜60年代に活躍したR&Bアーティストたちへの経済的支援を目的とした基金。設立のきっかけとなったのは、女性R&Bシンガー、ルース・ブラウンによる窮状の訴えだった。これに応じる形で150万ドルを寄付したのが、アトランティック・レコードの創始者アーメット・アーティガン。このことが財団の創設につながった。設立時の理事には、アーティガン、ブラウンのほか、この活動に賛同したレイ・チャールズ、ディオンヌ・ワーウィック、さらには、ダン・エイクロイド、ボニー・レイットらが名を連ねた。(数年後、モータウンの創設者ベリー・ゴーディも75万ドルのを寄付を行ったという)

R&Bファウンデーションの第5回パイオニア・アワードに出席したボニー・レイットとルース・ブラウン(1994年3月2日)
Photo by Ron Galella, Ltd./Ron Galella Collection via Getty Images

ニューポートR&Bフェスティバルは、この財団の主旨に基づき、R&B創成期のアーティストたちへの支援金を捻出するために企画されたイベントだった。その当時ニューヨークに住んでいた私がこのフェスティバルの開催を知ったのは、『ヴィレッジ・ヴォイス』誌でだったかと思う(まだインターネットが普及してない時代の話だ)。そこに出演者として列挙されていた黒人アーティストのうち、当時の私が名前と顔、音楽をシンクロで認識できたのは、アラン・トゥーサンチャールズ・ブラウン、そしてサム・ムーアだけだった。サム・ムーアが現役とは思っていなかったので、彼の出演に惹かれたことはたしか。ただ、実は、それよりもっと惹かれたのは、ゲストとして告知されていたボニー・レイット、そしてドン・ヘンリーの存在だった。

ボニー・レイットについては、その前年(94年)にラジオシティ・ミュージックホールで初めてコンサート(前座がブルース・ホーンズビーだった)を見たが、意外にもその時は少し期待外れ感があった。アルバム『Longing in Their Hearts』が出たばかりの頃だったが、ニューヨークではその前作『Luck of the Draw』(1991年)からのバラード・ヒット「I Can't Make You Love Me」がアダルト・コンテンポラリー局でまだ頻繁にかかっていた。ラジオシティに集まった観客の多くが、そういった大人のラブソング・イメージで彼女を聞きに来たかのような、俄ファン風情のアダルト・カップルたち。ボニーたちの演奏も、そんな聴衆に合わせたかのような、やや予定調和的なものに聞こえてしまったのだ。デルタブルースでカッコよくスライドをキメる姉御をイメージしていた私には若干イメージギャップがあったため、新たに「R&B」を謳ったフェスティバルでリベンジを期したい思いがあった。

ドン・ヘンリーの方は、90年に来日公演を観たのと、この前年に「まさか!」のイーグルス再結成ライブを観ていた。何ゆえ彼がR&Bフェスに?という気はしないでもなかったが、個人的には元々思い入れのある人。そんなわけで、私の場合、どちらかと言えば、黒人アーティストたちよりも白人の方を見たいという、イベントの主旨的に言えば少々不純な動機でチケットを入手した。もっとも、ニューポートという土地柄を考えれば、こういった白人ゲストたちの起用は、より幅広い層にアピールしたいという主催者側の狙いだったのかもしれない。私もそんな術中にまんまとはまってしまったわけだ。

とは言え、出演する黒人アーティストに一様に関心はあった。元来ディスコやファンク系の音楽が苦手で、黒人音楽はあまり積極的に聞いてこなかった私だが、ブルースやロックンロールの元になったようなリズム&ブルーズ、60年代のスタックスやアトランティックの音は本質的に好きだった。この当時の私の認識では、「R&B」と言えば、黒人音楽全般ではなく、そういったブルースの匂いのする音楽を指すものと思っていた。モータウン・サウンドですら、私的には「R&B」の範疇ではなかった。実際、この第1回フェスの出演者は、そういった音楽をやっていた人たちがほとんどで、その点ではまたとない機会だった。

ニューポートへは、ニューヨークから3時間半くらいのドライブだった。コンサートは昼頃の開始だったので、朝早めにニューヨークを出た。会場となったフォート・アダムス州立公園は、名前の通り、米国独立当初に沿岸線を守る要塞があった場所で、湾に突き出た岬のようなところにあった。会場は公園の芝生に思い思いに座るスタイル。ステージ奥に海が見え、そこに何艘ものヨットが浮かんでいたのを憶えている。

駐車場から会場に向かう筆者

ただ、肝心のコンサートの内容となると、誰がどういう順に登場し、何の曲を歌ったのか、1曲を除いて全く思い出せない。会場は撮影可だったので何枚か写真も撮っているのだが、残っているのは、ボニー・レイットとドン・ヘンリーのものだけで他の出演者の写真はない。割といい場所に陣取っていたので、今であれば出演者全員を写真に収めると思うのだが、アナログカメラの時代ゆえ、フィルムをケチったのだろうか… この記事を書く時点で出演者として憶えていたのは、前述のボニー・レイット、ドン・ヘンリー、サム・ムーアと、レイットと共演したポップス・ステイプルズ(当時は誰だかよくわかっていなかった)、そして事前の告知なく出演した、あるサプライズ・ゲストの演奏だけだった(曲目まで憶えていたのはこの人の曲だけだ)。30年前のこととは言え、自分の記憶の儚さに忸怩たる思いがする。そんなわけで、今回、これを書くにあたって、このイベントのことをGoogleで検索してみた。すると、わずかながら、その日の様子をレポートをした当時の記事が見つかった。曖昧模糊とした私の記憶の代わりに、その中の一つを抜粋して引用させていただこう。

フォート・アダムス州立公園で開催された1日限りのイベント、ニューポートR&Bフェスティバルは、この海浜公園に5,200人の観客を集め、大盛況のうちに幕を閉じた。灼熱の気候に負けず劣らずの熱い演奏が繰り広げられ、誰もがこのイベントの長期にわたる継続を疑うことなく会場を後にした。

「50年かかって、ようやくニューポートに来れたわ。もう一度来れるかどうかはわからないけど、私がやってきたことは覚えておいてほしいの」。誰もが認めるR&Bの女王ルース・ブラウンは、観客にそう語った。50年代初めの一連のヒットによって、所属先のアトランティック・レコードに「ルースが建てた家」のニックネームをもたらした張本人だ。ヒット曲「5-10-15 Hours」で会場を盛り上げたルースは、バラードの「Love Letters」では一転してしっとりと聞かせ、最後は、ひねりの利いたブルース・クラシック「If I Can't Sell It」でセットを締めくくった。

UPIアーカイブ 1995年8月1日の記事
「Before rock 'n' roll was a twinkle in anyone's...」(by Ken Framckling)より
翻訳:Lonsome Cowboy(以下同)

スターたちがこぞって出演したこの祭典には、財団副理事長のボニー・レイットやイーグルスの創設メンバー、ドン・ヘンリーもゲスト出演。さらに、バックステージを訪れたビリー・ジョエルがサプライズで登場。ピアノの前に座り、ソウルフルなテナーサックスの伴奏で「I'm in a Newport State of Mind」を歌った。このほか、ゴスペル・グループのクラレンス・ファウンテンブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマ、ジャジーなブルースを聞かせるシンガー/ピアニストのチャールズ・ブラウン、デルタ・ブルース・シンガーのポップス・ステイプルズなど、真のR&Bのパイオニアと言える面々が出演。ここ何年かのニューポートでの演奏を凌ぐような素晴らしいステージが、2時間にわたって繰り広げられた。

ポップス・ステイプルズ(右)とボニー・レイット

ニューオリンズR&Bの最重要人物であるアラン・トゥーサンは、パワフルなバンドを従えてステージに登場。「Mother-in-Law」や「Southern Nights」といった自身のヒット曲を聞かせた後、自らのバンドと共に他の出演者をバックアップ。その顔ぶれは、ソウル・シンガーのアーマ・トーマス、R&Bセッション・ギタリストのスティーヴ・クロッパー、「Patches」や「Strokin'」で知られるシンガー、クラレンス・カーターといった面々。

(この後)最初にポップス・ステイプルズとのデュエットで「Will the Circle Be Unbroken」を聞かせていたボニー・レイットが再び登場し、「Your Good Thing Is About To End」と「Three-Time Loser」を披露。ドン・ヘンリーは、トゥーサン・バンドの熱いホーン・セクションのバックアップで「The Long Run」、「I Can't Tell You Why」、そして、ボビー・ブルー・ブランドの「Yield Not to Temptation」を歌った。

ボニー・レイットのステージ。右のギターはスティーヴ・クロッパー、左のキーボードはアラン・トゥーサン。
ドン・ヘンリー

ジョエルの飛び入りの後、フェスティバルは、あのサム&デイヴのサム・ムーアの熱い登場でクライマックスを迎えた。レイットが「When Something Is Wrong With My Baby」をデュエット。その後、ヘンリーも登場し、「I Thank You」で故デイブ・プレイターのパートを歌った。大円団は、ムーアとヘンリーによる「Soul Man」。レイット、ルース・ブラウン、トーマス、ステイプルズに加えて、テレビ番組「60ミニッツ」のレポーター、エド・ブラッドリーもバック・コーラスに参加した。

今回のフェスティバルに先立ち、レイットは「R&Bの開拓者たちは過去の遺物なんかじゃない。私たちアメリカ人が忘れてはいけない存在」と語っている。「引退瀬戸際の落ちぶれたアーティストたちを引っ張り出そうなんてことじゃないの。まだまだやる気満々の素晴らしいR&Bアーティストたちがそこらじゅうにごまんといるのよ」。彼女はそう語る。ヘンリーの参加は、自身の「ウォールデン・ウッズ・プロジェクト」の慈善公演に参加してくれたレイットへの返礼の意味もあった。「僕のような者に大きな影響を与えてくれた人たちなんだ。資金集めもそうだけど、きちんとした評価を取り戻してもらうべきだ」とヘンリーは言う。彼は、イーグルス結成前の60年代の大半をアーカンソーからオクラホマにかけてのR&Bクラブで歌っていた経歴を持つ。

以上の引用は、UPI通信による1995年8月1日の記事からだが、地元(コネチカット州)の新聞『ハートフォード・クーラント』のアーカイブ記事によると、サム・ムーアは「Hold On! I’m Comin'」も歌っていたこと、クラレンス・カーターは「Slip Away」と「Patches」を歌っていたことがわかった。また、アーマ・トーマスは「Wish Someone Would Come」、「Time is On My Side」、そして作者のナラーダ・マイケル・ウォルデンをドラムスに従えて、アレサ・フランクリンの80年代のヒット「Freeway of Love」も歌っていたようだ。

私自身の記憶に一番はっきりと残っているのは、やはりビリー・ジョエルの登場。「(ニューヨークの)ロング・アイランドからボートに乗って来たら、楽しそうなことをやってるみたいだったから覗いてみたんだ」などと言いながら、「New York State of Mind」の「ニューヨーク」を「ニューポート」に替えて歌ってくれたのが印象的だった。ボニー・レイットは、尊敬するアーテイストたちに囲まれて本領発揮という感じで、私自身の前年の雪辱はしっかりと果たせた。一方、ドン・ヘンリーは、並入る黒人R&Bアーティストたちと居並ぶと、正直、やや力負けの印象だった。特に、サム・ムーアの圧倒的な歌唱の前には、ロックの世界ではハスキーボイスで知られる彼もまだまだ青く見えてしまった。UPIの記事では、ボニー・レイットへの恩義もあってこのフェスティバルに参加したと記されていたが、考えてみれば、イーグルスの「Please Come Home for Christmas」はチャールズ・ブラウンのオリジナルだし、セカンド・ソロ(1984年)の中の1曲「You're Not Drinking Enough」には、曲のエンディング近くにサム・ムーアがバックヴォーカルで参加しているなど、伏線はあった。楽曲「The Long Run」に顕著なサザン・ソウル志向は、ソロになってからもその方向性を前面に打ち出していたグレン・フライの嗜好が大きいと思っていたが、ヘンリーにもその傾向が十分にあったわけだ。

チャールズ・ブラウンがその日演奏した曲目は、残念ながらウェブから探し出せなかった。そもそも私が彼を認識したのは、この3年前の92年にボニー・レイットをゲストに迎えた、彼の復活アルバムがリリースされたから。ブラウンが、イーグルスがカバーした「Please Come Home for Christmas」や、エリック・クラプトンが度々取り上げている「Driftin' Blues」の作者だと認識したのは、もう少し後になってから。ボニー・レイットが彼のアルバムに参加したのもR&Bパイオニアをサポートする活動の一環であったわけで、私のような者が彼を認識できたのも、言ってみれば、そういった活動成果の現れとも言える。

Charles Brown 『Someone to Love』(1992年)

今回「ニューポートR&Bフェスティバル」について初めてウェブ検索したのだが、映像は皆無だったし、情報自体も予想以上に少なかった。よくよく調べてみると、3年で終了してしまったようだ。『PostGenre』という音楽サイトによると、私が訪れた初年度はスポンサーなし。翌年、地元のシューズブランド「ロックポート」がスポンサーについたものの、97年の第3回の後、同社がスポンサーを降り、それっきりになってしまったという。ちなみに、第2回、第3回には、それぞれ次のような人たちが出演していたようだ。

第2回(1996年)2日間開催

  • チャック・ベリー

  • エタ・ジェームス

  • ボズ・スキャッグス

  • ドクター・ジョン

  • ハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズ

  • ディキシー・カップス

  • リトル・リチャード

  • マイケル・マクドナルド

  • マーサ・リーヴス

  • アラン・トゥーサンのオーケストラ

  • スティーヴ・クロッパー

  • デューク・ロビラード

第3回(1997年)

  • アレサ・フランクリン

  • パティ・ラベル

  • ベン・E・キング

  • デルバート・マクリントン

  • チャック・ジャクソン等


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