ローレル・キャニオンの記憶を辿る
ここ数週間、私の周辺(note内)では、リンダ・ロンシュタットに関する話題で盛り上がっている。彼女のドキュメンタリー映画『Linda Ronstadt: The Sound of My Voice』(2019年)や、1970年前後に彼女を含めたロサンゼルス・エリアの若いミュージシャンたちが一種のコミュニティを形成していたローレル・キャニオンにスポットを当てたドキュメンタリー『Laurel Canyon』(『ローレル・キャニオン 夢のウェストコースト・ロック』2020年)をご覧になったという方が同じタイミングで複数現れたりと、何だか偶然とは思えない。
私はと言うと、中2の頃、自分で最初に買ったレコードがリンダ・ロンシュタットの『グレイテスト・ヒッツ』(1976年)で、以降、現在にいたるまで、自分の好きな音楽や、なんなら生き方の根幹にまで、70年代初頭の「ウェストコースト・サウンド」が染み付いている人間だ。そんなわけで、これら2本のドキュメンタリーは劇場公開された2年前に飛び付いて観たのだが、前述のnote仲間の盛り上がりもあって、ここのところ改めて往時のローレル・キャニオンに思いを馳せている。
ローレル・キャニオンは、その麓に映画の都ハリウッドを抱く丘陵地だ。この限られたエリアに自然発生的に出来たミュージシャンのコミュニティが、60年代末〜70年代初頭の音楽シーンでどんな役割を果たしたかについては、前述のドキュメンタリーに詳しい。
この予告編の最後に「It's magic!」という言葉が引用されているが、それは、このドキュメンタリーで取り上げられている音楽が、あの時代、あの地域だからこそ起こり得た奇跡のようなものだったことを象徴している。ヒッピー思想がまだ残る当時の若者の感性と、エンタメ産業中心地の間近にありながら、緑豊かで穏やかな住環境、そして、ベトナム戦争の厭戦気分高まる時代性、それらが同じタイミングで重なり合ったからこそ起こり得た、まさにマジックだったと言えるだろう。
そんな奇跡のような場所を、ジャクソン・ブラウンやジェイムス・テイラー、CSN&Y、イーグルスらの音楽に、言ってみれば「育てられた」私が、見てみたいと思わないはずはない。はたして、22歳になろうしていた頃、私はそこを訪れた。ただ、その思い出は、意外なまでに希薄だ。今回の機運に乗じてそこを訪れた自らの記憶を呼び覚まそうと、古いアルバムを引っ張り出してみた。
時は1988年1月。私は前年5月からのアイダホへの留学を年末に終え、アメリカ横断のひとり旅に出ていた。クリスマス過ぎにアイダホからオレゴン州ポートランドへと向かい、知り合いのアメリカ人の家に数泊させてもらった。そこではたまたまデイヴィッド・リンドレーのコンサートがあり、一人で見に行った。新年を迎えるとポートランドを後にし、その数日後サンフランシスコに到着。サンフランシスコのユースホステルでは、ガソリン代をセーブするためにロサンゼルスへの同乗者を募った。集まったのは、私より数歳年上の南アフリカ人(白人)の女性二人組みと当時30歳前後と思しきオーストラリア人の女性。この4人で2泊3日くらいの行程でLAへと向かった。
サンフランシスコからLAの道中も思い出深いものだったが、それについてはまた別の機会に。その時のアルバムを見ると、サンタバーバラの浜辺で遊んだ写真の後、いよいよこれからLAエリアに入るというところで「Los Angels」と書かれたハイウェイサインの写真を撮っている。
この標識にある、ハイウェイ「101」と「1」そして「126」の分岐が表示されている場所を今地図で確認してみると、どうやらベンチュラの街辺りと思われる。そこから1号線を辿れば、マリブの海岸沿いを走ってサンタモニカへ。101号を取れば山の内側からノースハリウッド方面に出るはずだが、どちらのルートを取ったのかは思い出せない(景色の良い1号線を選ぶとは思うのだが…)。アルバムの写真は基本的に時系列に貼っていったはずだが、この次に撮ったと思われる写真は、いきなりハリウッドでのものになっている。同乗した3人をどこで降ろしたのか──ダウンタウンのユニオン・ステーションだったような気もするが、「さあ、これからひとり」とハリウッドで思った記憶もある。キャピトルタワー近くに車を停めて、その辺りを一人で散策したことは覚えている。
この時、ロサンゼルスは初めてではなかった。初訪問は、その1年ほど前。その時は典型的な観光客という感じで、ハリウッドのチャイニーズシアターと蝋人形館、ユニバーサル・スタジオ(日本にはまだなかった)、サンタモニカのビーチ、リトルトーキョーなどを訪れていた。もちろんビバリーヒルズ・ホテルも見に行った。88年のときは2回目ということもあってか、特に明確な目的地はなかったような気がする。ローレル・キャニオンを訪れようという意思があったかどうかも曖昧だ。アルバムには、ハリウッドの写真の後、サンセット・ブールヴァードのタワーレコード、続いて同じ通り沿いにあるビバリーヒルズ・ホテルの写真が出てくる。前年そこを訪れた時はちょうど夕暮れ時で、まさに『ホテル・カリフォルニア』のカバーのような雰囲気だったのだが、既に少し暗かったので、写真はあまりきれいに撮れていなかった。再度写真を撮りたいという思いがあってそこを訪れた記憶はある。ちなみに、初訪問時にちょっと驚いたのは、ホテルの外壁が薄いピンク色だったこと。『ホテル・カリフォルニア』のジャケ写では白壁だと思っていたので、自分では意外だった。もっとも、今思えば、ワイキキにあるホテル「ロイヤル・ハワイアン」も同じようなピンク色だから、20世紀初頭のスパニッシュ様式のホテル建築としては、このような色は典型的なものだったのかもしれない。
ビバリーヒルズ・ホテルの次に撮っている写真が、「トゥルバドール」。ローレル・キャニオンに多くの若いシンガーソングライターやフォーク・ロック系ミュージシャンたちが住んでいた60年代後半から70年代初頭にかけて、彼らの登竜門であり、交流の場でもあった伝説的クラブだ。しかし、私がそこを訪れた88年当時には、もはやそういった風情は感じられなかった。日中に店の前で写真を撮っただけだなのも、往時のような出演者が演奏する場所ではなくなっていたからだろう。このクラブが往時に果たした役割に再びスポットが当たったのは、2000年代以降。リユニオンライブなども多く行われるようになったが、私が訪れた80年代末には少し淋しい雰囲気だった。今回、ウィキペディアで調べてみたところ、80年代にはガンズ・アンド・ローゼズのようなグラムメタル・バンドが多く出演していたとあるが…
アルバムでは、トゥルバドールの写真につづいて、サンタモニカ・ブールヴァードだろうか、あまり意図のわからない、車窓から撮った大通りの写真がある。そして、次が、ワーナーブラザーズ本社の写真。バーバンクだ。バーバンクは、ハリウッドからハリウッドサインのある丘を越えた反対側(北側)にある。トゥルバドールのあるウェストハリウッドからそこに行くには、ローレル・キャニオンを超えていくのが最短距離のはずだが(下記地図参照)、なぜかローレル・キャニオンの記憶も、写真も残っていない。
時系列が不確かなのだが、ワーナー本社の次にアルバムに貼られているのは、フュージョン系アーティストのライブベニュー「ザ・ベイクド・ポテト」。
この店はハイウェイ101沿いにあり、ハリウッドからここへ向かったとすれば、ローレル・キャニオンを通らず、ハリウッド・ボウルの横からハイウェイ101経由でバーバンク方面に向かった可能性が高い。時間的にはそちらの方が速いと思う。しかし、私はこの88年の時点で、ジョニ・ミッチェルのアルバム『Ladies of the Canyon』(1970年)も持っていたし、CSN&Yの「Our House」(「僕達の家」)が、ジョニとグレアム・ナッシュが暮らしていたローレル・キャニオンの家であることも知っていた。
つまり、当時の私は、ローレル・キャニオンのことを十分に意識していたはずだ。実際、時系列では翌日と思われるが、「Laurel Cyn」と書かれた道路標識を嬉々として撮影している。
この写真を撮影した正確な場所は思い出せない。標識は、地名としてのローレル・キャニオンではなく、ローレル・キャニオン・ブールヴァードの通り名を示すものと思われるが、この通り自体は、いわゆるローレル・キャニオン・エリアだけでなく、それより北のノースハリウッド方面へも続いている。前後の写真からしても、ローレル・キャニオン・エリアではなく、ノースハリウッド周辺で撮ったと思われる。今回Googleマップとストリートビューでそれらしいところを探してみたが、特定できなかった(心当たりのある方は、コメントでお教えください)。しかし、丘の上の急斜面に家が点在するようなローレル・キャニオンの典型的風景(下記動画参照)をなぜ撮っていないのか、さらには、実際にそこを訪れたのかすら、やはり思い出せない。
一方で、この時のLA滞在では、やるべきことと言うか、やらなければならないことが二つあったことは憶えている。ひとつは、ポートランドで紛失してしまったクレジットカードの再発行を依頼するためにロサンゼルスにある邦銀(三菱銀行だったような気がする)を訪れること。そして、もうひとつは、車の修理だ。車のどの部分にどういうタイミングで故障が発現したのかもはや憶えていないのだが、友人から500ドルで買ったこの73年型の車は相当オンボロで、ここへ来るまでも、そしてこの先の旅でも散々私を苦しめてくれた。結果的には、下の写真にある修理工場に車を持ち込んでいる。たしか、1泊での修理だった。この修理工場があった場所がノースハリウッド/バーバンク周辺だったこと、そして、その近くにあったモーテル「トラベロッジ」に泊まったことは憶えている。
たまたまバーバンクを通ったときに車の状態が悪くなったのか、それとも最初からバーバンクで修理に出すつもりだったのか、それすら思い出せない。ただ、車を1泊2日で修理に出している間、バーバンクのワーナースタジオ近くにあるテレビ局「NBC」のスタジオツアーに行ったことは憶えている。当時、NBCでは「ホイール・オブ・フォーチュン」というクイズショーがあったのだが(調べてみると、今でも形を変えて続いているようだ)、そのスタジオ収録に参加できるというツアーだった。モーテルにあったチラシか何かを見て、ここなら歩いて行けると思ったのではないだろうか。これは、思い付きにしては中々面白い体験だった。収録では、スタッフが「Applause!(拍手!)」と書いた札を度々観客の方に掲げて盛り上げようとしていたことが印象に残っている。
あと、なぜか憶えているのは、夕暮れ時、NBCスタジオへの結構な道のりをとぼとぼ歩いていた時、隣のワーナーブラザーズの建物の壁に、当時公開されていた映画『Nuts』(『ナッツ』)のビルボードがあり、主演のバーブラ・ストライサンドに真剣な眼差しで見つめられているような気がしたことだ。
私のフォトアルバムで夕暮れのNBCスタジオの写真の次に貼られているは、日中の「パロミノ」の写真だ。パロミノは、ノースハリウッドにあったカントリー系のクラブで、70年前後にはフライング・ブリトー・ブラザーズが頻繁に出演していたし、70年代後半にはエミルー・ハリスもよく出演していたようだ。また、この旅行当時、カントリー局でヒットしていたデザート・ローズ・バンドのファーストアルバム(1987年)の裏ジャケ写真は、このクラブの前で撮影されている。だが、私が訪れた時の看板を見ても、知っている名前は全くない。ちなみに、このクラブは1995年に閉鎖されたそうだ。
パロミノの次に出てくるのが、前掲のローレル・キャニオン・ブールヴァードの道路標識の写真。車の中から撮ったと思われるこの道路標識の写真は、3バージョンもある。そのくらい「ローレル・キャニオン」を意識していたということだろう。車の修理はこの時点で終えていたと考えられるが、その次の写真がハリウッドの丘の上にあるグリフィス天文台から撮った夕景になっている。
グリフィス天文台は、ジェームス・ディーンの『理由なき反抗』(1955年)や近年では『ラ・ラ・ランド』(2016年)のシーンにも登場したビュースポットだが、ノースハリウッドのローレル・キャニオン・ブールヴァードからグリフィスパークに向かうのであれば、ローレル・キャニオン・エリアを通る選択肢があったはずだ。しかし、そこを通った情景は、やはり脳内再生されない。この夜はノースハリウッドのトラベロッジに連泊しているようだが、その翌朝には、ベニスビーチからマリナ・デル・レイ、ロングビーチを経て、サン・ディエゴへと向かっている。
何ゆえローレル・キャニオンを素通りしたのか、あるいは印象に残っていないのか——結局、私の中では謎のままだ。ここまで期待して読み進めてくださった読者の皆さんには申し訳ない。ただ、明確な記憶のない者が語るのもおこがましいが、私の中で、「あの時代」のローレル・キャニオンの空気感を最も感じる音楽は、やはり、クロスビー・スティル&ナッシュのファースト(1969年)、そして、ジョニ・ミッチェルの『Ladies of the Canyon』(1970年)とそれに続く『Blue』(1971年)だ。そこに感じられるのは、地理的には都会の一部なのに、エアポケットに入り込んだように外界の騒音から隔絶された環境。そして、そんな場所で、若さゆえの気ままさでゆるい共同生活を営む者たちの姿。60年代後半にサンフランシスコを中心に盛り上がったフラワームーヴメントの熱狂や幻想よりは、もう少し地に足が着いた穏やかな生活。『Ladies of the Canyon』のタイトル曲には、まさにそんな情景が描かれている。
この時期のジョニの歌の多くは、とてもパーソナルだ。パーソナルすぎて、背景事情を知らないと少し理解しがたいものもある。だが、かなり細部まで描写されていて、当事者からすれば「これはあの時のことか!」とドキっとしたであろうような情景描写が多い。それゆえ、ファンである私たちは、これは誰のことだろうとつい詮索してしまいたくなるし、その背景を知れば知るほど曲の味わいが増すのも事実だ。
例えば、少し後のアルバム『Court And Spark』(1974年)に収められている「Car On A Hill」には、関係が微妙になってしまっている「彼」が丘の上にある自分の家に車で上がってきてくれるのをひたすら待っている女性の姿が描かれている。そして、この「彼」は、ジャクソン・ブラウンだとも、ジェイムス・テイラーだとも言われている。(「丘」はローレル・キャニオンの丘と思われるが、なぜかタイトルは、「on the hill」でなく「on a hill」(ある丘)となっているのが興味深い)
一方で、『Ladies of the Canyon』収録の「Willy」(グレアム・ナッシュの通称)のように、当事者があからさまなものもある。上の曲「Ladies of the Canyon」に出てくる3人の女性の名も実名だ。1番の歌詞に出てくるトリナ・ロビンスは女性漫画家として大成した人だが、この当時はキャニオンでブティックも営んでおり、デイヴィッド・クロスビーやママ・キャスも彼女が縫った服を着ていたという。2番の歌詞に出てくる女性アニーは、ジョニの『Blue』をはじめ、CS&Nやイーグルス、ジャクソン・ブラウンのファーストなど、この時期のローレル・キャニオン在住の多くのアーティストたちのアルバムカバーを手掛けていたデザイナー、ゲイリー・バーデンの妻、アニー。そして、3番に出てくるエストレヤ・ベロシーニという女性は、ジョニと同じく、シンガーソングライターだったという。調べてみたところ、彼女自身のアルバムはなさそうだが、80年頃のピーター・ローワンのアルバムにハーモニー・ヴォーカルで参加している。
友人のことをさらりと歌にして、それが(個人情報などと騒がれることもなく)レコードになって受け入れられる時代──ロックが巨大ビジネスと化してしまう前夜の、熟れきる直前の果実のような瑞々しさ。その瑞々しさこそが、イーグルスが「1969年以降、ここにはスピリッツは置いていません」と「ホテル・カリフォルニア」で歌ったものと同じだったのではないだろうか。それが、「あの時代」のローレル・キャニオンの空気感だったのだと思う。
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