「ふたつの東京」
東京は、ふたつ在る。
直感が頬をかすめる瞬間。地熱発電かと紛うアスファルトの熱の上で、外国人たちが走ったり、泳いだりするのをビジョンに見る。それは苛烈にも、ギリシア神話の太陽のイメージに重なりながら、液晶の中で行われる栄光の祭典たるTOKYOだった。それは私には「存在しないもの」のようにも、はたまた隣にあるようにも感じられた。私は横断歩道を渡りながら、巨大なビジョンに映し出される躍動するアスリートの肉体をつぶさに観察する。同じ人間とは思えないほど、美しく、逞しく見える。
百貨店を抜け、ロマンス通り。夜の明かりは人々の歓声と嬌声のなか。これもTOKYO。人生で恐らく一度の自国で開催される祭りに、飲めや歌えやの騒ぎがある。飲み屋から、橙色の明かりと、過剰な冷房と、ナショナリズムの名残りが漏れてくる。安アパートの六畳間にすわり、ペットボトルの水を取り出す。腹は減っているが、先に何か飲みたい気分だ。自分の食道に充満しているいやな空気を、とにかく塗り替えたい、そんな気持ちがして、水は飲むためではなく洗うために、胃の奥へ消えていく。
Twitterのトレンドを見る。「金メダル」「サヨナラ勝ち」に紛れて、もう一つの東京が顔をのぞかせる。「東京4000人」 。お祭りの裏で、人々が倒れ、失われていくものがある。それは祭りの光と声で見えにくくなっている、まぎれもない「現実」として、けれどパラレル・ワールド、と誰かが言っていたように、「幻想」として、同時に存在する「東京」。まったく。まさか、自分がその世界に入り込むなんて、思ってもいなかった。では、この世界を作り出したのはだれか。この世界を、どのように一つへ収斂させるのか、その「ひとつ」の世界をどのように構想してゆくのか。
ベルリンの壁崩壊のニュースの、あの斧とハンマーを持った人々が、懸命に壁を打ち壊す光景がよみがえる。やせた者も、屈強な者も、みなが興奮に打ち震えながら、壊される壁へ向かって熱狂する。彼らの叫び、筋肉のこわばり、緊張と、使命感と、そして、至上の喜び。二つに分かたれた世界を、ひとつにするのは人々の知と力ではないか、政府ではなく、私たちの炯々としたたくさんの眼ではないか。一対の光る眼が、憤りと哀しみと、不条理を抱えた燃える無数の眼が、祭りの神輿を抱えながら、二つの世界の境界へと、向かってゆく。
六畳間の天井に映写した私の幻燈。「ふたつの東京」を私は脳の抽斗に大事にしまっておいて、来る時が来れば、渋谷スクランブルの四面連動のスクリーンに映し出してやろう、と思った。
※この作品は創作/フィクションです。