偶景
日常があまりにも褪せているので、肌に感じられる冷たさや、木曜に降った大雨のこと、そんな退屈な事柄しか思い出せなくなっている。私たちが何かを書くというとき、何かを伝えるというとき、記憶との密な結びつきがそこにリアリティ、こう言ってよければ、本当に文章をもってあたかもそこに居られるのではないかという”臨在感”を与えることがあるが、それは記憶に立脚しているという一点において、まぼろしであり、誤謬である。
町を歩く人々の顔も、こころなしか、憂愁を帯びているように思えた午後だった。人々の眼には真剣さもあり、それでいて弛緩しきった退屈をも孕んでいるのだ。どうしようもならなくなった自らの生の、予測不可能と言いつつもほとんど暗い見通しの立った人生の下り坂を、呆然と立ち尽くしながら見つめているような、夕暮れのような暗さ。昏さ。
子供たちの歓声が響いている。遊具が少ないがだだっ広い公園には、保育園児から、小学校中学年ほどの子たちが入り混じって遊んでいる。かれらはかれらの言語を話す。かつてわれわれが感得していた、失われて久しい、無軌道で奔放な言語は、もはやその意味の片鱗さえ分からなくなってしまったようだ。無限の笑いと歓声がこだまする団地沿いの公園は、ともすれば静謐の中で窒息してゆく人々にとって、記号的な意味を持っている。
ひときわ印象的だったのは群青色だ。深い青、海のない、東京には無い色。群青色のワンピースを着た、ひとりの少女が、ブランコを漕ごうとする。彼女の周りには誰もいない。賢明そうなその少女は、幼少期ならではのひたむきさで、自らの重心を定め、慎重に、バランスをとる。そして、彼女の精悍な眼は上を向く。もっと高く。もっとはやく。上へ。さらに風を。高く。遠く。というように。
その光景だけが忘れ得ない。上を向く、ということをこれ以上ない非言語性を以て表現しえた彼女の存在そのものに、わたしは貫かれたような思いがした。幼さ、ひたむきさ、ブランコの運動、歓声、笑い、太陽。上昇へのエネルギーがレイヤーを為し、露光の多すぎる写真の、爆発する光輝のごとく、生に風穴を空けてくる。
そのような一瞬のために書き、生きていくのだ。たとえ褪せながら、倦みながら、暮れながらも…