刻む、傷つく、愛する―ルーヴル美術館展の感想
長蛇の列を抜けた先では、展覧会のロゴが壁に大写しだ。《ルーヴル美術館展 愛を描く》ゴシックとセリフ体を交えた日本語文が、いかにもそれらしい。このスローガンの横には「ルーヴルは、愛だ。」(あんまり記憶にないが、きっとそんな感じだった)という台詞が、ハートマークの中に込められている壁画があり、若人がカメラを構え様々な角度から自撮りを行っている。美術館に来たはずが、と思いげんなりしつつ、人を搔き分けながら展示を見て回った。
窮屈な展示体験だったが、いちおう展示のおおまかな流れはあった。ギリシア神話に登場する愛の神アモルを描いたものたちの作品群を抜けると、キリスト教における父子愛(これは放蕩息子を赦す場面が象徴的である)と母子愛(『眠る幼子イエス』は圧巻だった。作品がハイトーンなのも相まって光輝が感じられる。)、そしてエロティシズムや情欲の《眼差し》のエリアへと連れていかれる。
良し悪しは人それぞれ感じるところがあろうが、「愛」を17世紀ごろからどのように人間が描いてきたかという所作の歴史が看取できるようになっていたのは個人的には面白いと思った。たとえば、フランソワ・ブーシェ『アモルの標的』は、愛の神アモル(これはいまやキューピッド[クピド]として日本人のイメージにあまねく定着した、赤子に翼が生えた愛らしい姿をしている)たちが奔放な姿で描き出されている。象徴的なのが、中央に赤いハートが描かれ、それを矢が貫いているカンヴァスを持っていることだ。クリシェとして、〈愛の矢〉は想像するに難くないが、これは非常に古くからのモティーフとして呈されていたのである。アモルはここで弓道を究めたのだろうか。
愛は、ひとの心臓を貫くもの(者)であった。これこそが以外にも重要なのではないか?と思う。儒家の人々が提唱する仁愛のような落ち着いた響きはそこにはなく、ただ愛の神がいて、それが射た〈偶然性の矢〉に射抜かれた可哀想な乙女や青年やあるいは老人でさえ、愛の渦の中に繰り入れられる。この原初の〈貫き〉という行為が、愛の中にある様々な側面を規定しているように思えてならない。
展示は続く。それは、愛する人との別れを描いた絵画たちで終わる。テオドール・シャセリオー《ロミオとジュリエット》を参照する。暗い部屋の中、無造作に床に横たわる男女。男の顔、服飾、その体躯すべてが、溶けてゆくように非人間的に描かれている。これは死体である、と直感させる筆致だ。「死」の場面を取り出すのは、そこに最も情動が集中するからだろうか、女は涙を流し、あるいは絶叫し、絶望する。そんな修羅場を描くことは、果して表現として「愛」に集約できるものだろうか。インスタ映えに釣られてやってきたカップルたちが展示の最後に目にするのは、見るも無残な悲劇であることは面白い。
この対極にも思える作品を結ぶ重なりがあるとするならば、それは「刻印」ではないだろうか。愛する人の心に、あるいは自分の心に愛する人の印象を「刻む」こと。それはその彫刻の強度と進度によって、愛する/愛される人を傷つけざるをえない。長く連れ添った者としっかりと刻み合った心象は、離れるときに心を剔抉する。たくさんの血が流れ、叫びがあり、表現から零れ落ちていく無数のダイナミクスがある。その上澄みの一滴を掬い取って「愛」と呼んでいるのはわたしたちだ。わたしたちは言語を内省しなければいけない。「愛」とは何か、少なくとも、instaworthyとは別の方向に存在する極点。それは、考え続け、感動し続け、この世界の一隅に存在するつつましき人間たちにのみ許される、高潔な言語であることは間違いないだろう。と思ったのだが、私の思考が「愛を描くこと」の意義如何から、「愛」そのものへと逸脱したことに気付く。これも「愛」というものの魔術的引力なのかもしれない―。