簡単に考えるという事がとても難しい。
子供の頃から、今に至るまでずっと「難しく考えすぎだ」とか「もっと簡単に考えなよ」とか言われてきたが、そう言われる度に「どうやって簡単に考えたらええねん」「簡単に考えるとはどういう事やねん」と思ってきた。
こっちとしては、ただ自分なりに見えるものを咀嚼しているだけなのに、それが「難しい」って言うのが、まず分からない。
相手を慮る為に、色々と考える事を「難しく考えないでそれを成す」と言うのが、本当に意味分からん。
それは自分本位で生きて良いと言う事なのか、何なのか、本当に分からない。
どの段階で頭を止める事がちょうど良いのかが分からない。
他人を慮って、想像しうるパターンが3個ぐらい出たらそれの中から選んで相手を断定すれば良いのか?
状況を見て、それが悲しく見えたその主観が、自分の主観でしかない事を認識してはいけないのか?
主観だからこそ、間違えているのかもしれない事を考えるなって、それは変ではないだろうか。
主観と事実は異なるのに。
主観が大事だとするなら、相手の主観もまた大事なのではないかと思うし、それを尊重するなら、相手の主観を知るべきだが、教えてくれたり、教えてくれなかったり、嘘ついたりするじゃん。
つまり相手の主観というものは分からない。
だから相手の主観は想像するしかない。
だけど所詮想像でしかない。
その想像であるという事を捨て去る事が出来るほどの確実性をどこで担保すれば良いのかが分からない。
状況を見て、自分の認知が歪んでいる可能性は?
状況を正しく見えている確証はどこにある?
見えてない状況を、どうやって見れば良い?
そういう所で、結局想像が必要になってくる。
結局それをどこで区切ればいいのかが分からない。
…イライラしたでしょ。
流石に少し誇張してはいるが、大体自分はこんな風に思う事も多かったりします…。
結局、自分は相手をよくみるという事が得意じゃないが故に、こういう事になってしまっているのだろうと思う。
人というものを捉える時、注意力が散漫になり、その分だけ穴が生まれる。
人が変化する事に気付きづらく、一度見たその人が前とは違う事に気が付けない。
だから、それを補おうと想像する。
自分に限っては、むしろ想像力は高いぐらいだと思う。
発達障害は、「相手を想像する力が弱い」と、しばし説明されるが、全く自分としてはしっくり来ない。
めちゃくちゃ想像してると思うんです。
ただ、相手を見る力、相手を認識する力に問題があるから、そもそも「相手」という虚像が既に歪で、だから想像が見当違いとなる。
そういう言い方が、自分的にはしっくりくる。
とはいえ、自分は自称なので、自分の方がそもそもASDとかじゃない可能性は充分にあると思う。
自分がそう感じている事を、他人もそうだろうとするのは変だと思うし。
参考になるかどうかは分かりませんが、とにかく自分はこんな感じだって事で。
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