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なぁ友人、これのやり方を教えてくれないか?

友達がいない事、本当に快適なのですが、それでも不便な事はあったりします。
ものの使い方が分からなかったら自力で探すしかないし、どうすれば目標に届くのか、自分は目標に届いているのか聞く事が出来るのは、良いなと思う。

僕は自称孤立型ASDなので、もちろん友達もいない(そう思ってくれている人はいるのかもしれないが、知らん)し、実家に住んでるのに親や兄弟と会話もしない。
会話するとちぐはぐになって、言葉も出てこなくて伝わらないで終わる事の方が多いから。
そういう状況を頑張って維持してくれている家族に感謝感激雨あられなのですが、それは心の中に止めています。
言ったら角が立ちすぎて喧嘩になりそうだし。

家族に対してもこうなんだから、きっと他人であるあなたとは、一切のコミュニケーションがうまくいかないという確信がある。
これは単なる勘などではなく、実証された経験則からそう言えるのです。
「努力してない」とかじゃなく、「努力した結果これ」なんです。
だから、これを読んで「こういう機能があるよ」とか書かれても、僕は読んで「なるほど💡」と思うだけで終わるのである。
頑張って返信を書いたとて、「そうなんですね、分かりました、ありがとうございます」が関の山。
返事が続くような仕組みの返事を書きたくない思いが強くなりすぎる。

こんなんだから、世の中のありとあらゆるものの仕組みが分からない。
全部探り探りやってる。
自分がこうでなかったら、多分もっといろんな事が日の目を見ているんだろうなって思う事、あったりする。
でも残念、僕はこうなんです。
僕なりのやり方で、世の中についていけないなりに、ついていこうとしています。
そういう風に、自分なりにやってみて、賢明にやるよりも、自分の場合は継続した方が良い結果を生む事が分かっているので、これを一日にずっと書いている訳です。

今の所、自分が発散する場所にはなってると思う。
でも、人がこれをどう見るかは分からない。
「人に興味がないから」とかではなく、単純に人と人は、違い過ぎて、何をどう感じるかとか、そういう事を想像すること自体、変な事だと思うのです。
いつどんな人が見るのか分からないのに、そのいつどんな人を想像する事って物理的に無理なんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。
うんち好きな人がいれば、嫌いな人もいるし。
たまたまうんち好きな人だったからOKとか、たまたまうんち嫌いだったからアウトみたいな、世の中そういう事ありがちではないです?
じゃあもういっそ、そういうのはあんま考えないで、好きにやったら良いんじゃないかって思ったりもします。
そう考えただけで、少し世界が明るくなったような気がしました。

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