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中年が始まる前からずっとASDが始まり続けている。

僕は三十代の真ん中ぐらいなのですが、自分自身の年齢も曖昧です。
何故なら、年齢というものに興味が無いからです。
なので、自分の年齢も分からなければ、他人の年齢なんて全然知らないです。
親の年齢も知らないし、親の誕生日も、兄弟の誕生日も知りません。
でも、「これってきっと変な事なんだろうなぁ」と思いながら生きてはいます。

かくいう自分の誕生日なのですが、一応日程は覚えているものの、自分の誕生日にもあんまり興味が無いし、誕生日そのものに碌な思い出が無いので、それそのものに対してもあんまりいい感情を持っていません。
子供の頃、僕はお金が欲しかったので、親の誕生日にお金をあげたら叩いて落とされました。
あれはしんどかった。
学生の頃、友達と誕生日パーティをしたら、部屋がめちゃくちゃになり、お菓子まみれになり、そして家業の手伝いを泥酔状態でした事もありました。
誕生日なのに、2つの事で怒られた。
部屋を汚した事、家業を手伝い損ねそうになった事。
あれも辛かった。
友達はいたような気がしていたが、誕生日を祝われた事はこの1度しかなかった。
何年も一緒にいたのに。
しかも、あれは祝われたと言って良かったのだろうか。
人の家で遊びたかっただけなのではないだろうか。

とまぁ、自分の事を差し置いてあれよこれよと負の感情が湧き出てくるのが僕の誕生日です。
毎年最悪の気分です、全く。
それに加えて、コミュニケーションの不全と、コミュニケーションの回避、そしてコミュニケーションの渇望という矛盾が常にあり、こんな苦しい事、あるか?の気持ちです。
「中年になるのが怖い」とか言う人がいますが、自分には中年になって何が怖いんだという思いです。
元の記事、本は読んでないので、詳しいディティールは分からないのですが。
よく考えたら、その前にパーティーが始まっていない事に気が付いた。
パーティーのあった人生ってなんなんだ。
それこそ、きっとコミュニケーションがあり、愛があり、共感と笑いがあったのでしょう。
自分にはそれが何一つないと言えるのですが。

ひょっとしたら、前提として、「パーティー」なる幻想が単に自分を苦しめているのかもしれないと思う事もあったりする。
本当は、「パーティー」というのは、本の黙読の事なのかもしれない。
イヤホンで音楽を聴く事なのかもしれない。
「普通の人」という曖昧な概念が、「パーティー」という曖昧な概念を成し終えて、「中年」という曖昧な概念が始まるらしいという、なんとも曖昧な話だ。

誰か、「パーティー」とは何か教えてほしい。
教えてくれたらすぐに消えてほしい。
「パーティー」が何か知った瞬間に興味も失って、どうでも良くなるから。
ただ「その人の思うパーティー」が記憶として残るだけで、それが正しいとさえ思わないのかもしれないし。
でも感謝はする。心の中で。
返答はしたくない。
そういう簡単なコミュニケーションでさえ失敗するかもしれないし。

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