自分が好きなんじゃない、強いられているんだ、禅を。
僕は、自分の事を考えるのが好きです。
だって、自分というものは、自分にしか分からないから、知っておきたいと思うのは自然な事なのではないかと思うのですが、どうでしょう。
ただ、自分を知ろうとする方法があまり健全じゃないのは、そうかもしれません。
きっと普通は、友達に聞いたりするものなのでしょうし。
そして、自分は何よりも、考える事、想像する事をよくやってしまいます。
それは子供の頃からずっとそうでした。
登下校の最中、ずっと下を向いて、会話のシミュレーションをやっていました。
頭の中だけで、時に喧嘩になる事も、ひどく傷つく事もあり、なかなか不安定ではありましたが。
人は、いつだって思いがけない方向の、思いがけない事を言う傾向がある事は知っていたので、それをどうにかシミュレーションできないか考えましたが、なかなか一人では出来ないようです。
だって自分は自分でしかないし。
でも、それのおかげで「自分は必ずしも正しいわけではない」という事に気が付けたのは大きかったかと思います。
ただ、頭の中で会話をシミュレーションしても、そもそもとして、人の前ではうまくいったりするわけもありませんでした。
会話というものは、適切な声量はもちろん、適切な声色、適切な言葉遣い、適切なタイミングというものがあって、それらの全てを相手が「無視してるのかな」と感じない程度の長さで整えて出力するという事があまりにも高等技術にしか思えないのです。
僕の脳内シミュレーションではそこの制限時間の設定が出来ていませんでした。
人は、思考すると時間認識が激しく歪んでしまうのです。
それに、思考の世界は、「出力」という概念が極めて曖昧です。
考えたもの全てが存在していて、最終的に何を出すかを決める事は出来ても、それを身体が制御するというのは、また違う事でした。
そうこうあって、僕は、一つの会話のリレーにとてつもない時間をかけてしまうという種類のバケモノになったのでした。
本当なら、一つ会話があって、それの答えを出すのに、最長で数日は欲しい時がある。
そうしないと分からない事もあるから。
でも、きっと会話ってそうじゃない。
もっとカジュアルで、球を弾き返すようなものなのだろうけど。
自分は、その球を、相手はどういう風に弾いてほしくて、実際はどのように打ち返して、どういうオリジナリティを持つか、あるいは持たないかという選択を考えている間に、球は横を通り過ぎてしまう。
そして相手はこう言う。
「おもんな」って。
そんなぁ、殺生な。
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