専門知識は、素人には不安定に見える。
一方の動物病院では、「耳が痒がるのはアレルギーだ」として、ナチュラル志向に、生活から改善していこうというアプローチだったのに対して、また一方の動物病院では、徹底的に原因を事実ベースで特定して、その問題をあくまで科学的なやり方、薬剤を用いたやり方で改善のアプローチを試みていた。
(動物のではあるが)医者ですら、そういった信仰の違いがある。
いろんな精神科医に会った。
ただ変わっていくのを信じている人。
変えたいと躍起になっている人。
薬で変えようとする人。
変わる可能性を片っ端から置いていきたい人。
そういう信仰の違い、というか、問題のアプローチに大きな違いがあった。
(自分は何様なんだの話ではある)
「医療」という、下手をすれば人が死にかねない様な、免許が必要な事でさえ、千差万別のアプローチがある。
十人十色なのは変わらないのである。
様々な料理のレシピがあって、同じ様でも、塩を振るタイミング、焼くタイミング、焼き終わるタイミング、全てが、人により異なる。
やはりそこにも信仰の違いがあり、料理の場合なら、更に好みもある。
「信仰」とは、若干スピリチュアルな要素も含まれる言葉だが、それを信じるに至るまで、膨大な量のエクスペリエンスが必要になってくる様な、事実の塊でもあると思う。
人によって、何を体験して、何を感じるかというのはミクロになっていけばそれだけ大きく変わっていくし、そのミクロな違いが、結果的に大きな信仰の違いとなって現れてくる。
素人は、そういうミクロな世界を見る事が出来ないし、見る気もないから、その信仰の違いに苛立ちを覚える。
「言ってることバラバラじゃねぇか、何が正しいんだ」って。
多分、この世界には、思っている以上に正しい事が存在しないという事なんだと思う。
だから信仰が必要になってくる。
そしてその信仰を、より正確にしていこうという運動、「学」がある。
科学とか、量子力学とか。
工場は、安定して、同じものを延々と作る事が出来るが、機械はまだトゥールビヨンを作る事は出来ない(要出典)。
いつかはそういう複雑で細かなものでさえ機械が作る時代も来るのだろうし、きっともう来てるのだろう。
それが「学」であり、それこそが人類の英知なのだろうと思う。
とは言え、その「学」の正確さを肌で感じてみるとまた、その世界が絶妙な、繊細な世界である事を痛感する。
素人がいきなりアロゼとかやっても絶対に上手くいかない。
素人が髪をセットしようとしても上手くいかない。
だから、何をどうしたって、自らのエクスペリエンスというものは、全てにおいて一定程度は必要だという事。
少しだけでも、知ろうとする事。
違うような気がする事と、合ってるような気がする事も大事だが、それはそれとして、事実として間違っているか、正しかったのか知る事もまた大事であって、それが「学」というもの。
でも、自分の場合は、特に人間に対して、いくらエクスペリエンスを積んだって分からないなんて事があるから、そういう得意不得意、興味のある無しもまたある。
だから、許して欲しいし、許されたいよね。
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