夾竹桃の花と、もう一度この街から核政策を再考するまでの旅路
2023年8月5日、ここにきて振り返った時に、一定時間広島を離れていたことが、広島のことを考え直そうと思ったきっかけになったんじゃないかと思う。台湾から戻ったら、もう一度自分の足元を見つめてみようと、生まれてからずっと踏んで歩いてきた土地としての広島で出会った人、知った歴史を深掘りながら、今までとは違う歩幅で学び直しを始めた。その記録のたった一部。
きっかけ
スタート地点は、SocialBookCafeハチドリ舎に行ったことだったように思う。ハチドリは「真面目なことを話しても引かれない場所を作りたい」と話す店主安彦さんが運営するカフェで、政治も人権も、ジェンダーイシューもカジュアルに話せるのが心地いい場所。広島に帰ったら早く行きたいと思っていた場所で、その日は3月16日だった。毎月6のつく日に語り部の方がやってくるハチドリで、ちょうどお話しすることができた。語り部の方と話すなんていつぶりだろうかと思いながら、その時はほとんど地元の話で盛り上がった。何気に近所にあるお好み焼き屋さんが一番美味しくて好きだよね、とかそういう話をした。重ならない記憶があることを知りながらも、同じ話題で言葉を交わせたことが嬉しかった。今までの断片的な学びに実をつけ、繋げていきたいと、この時に感じた。
学習会への参加
次に足を運んだのは、浅野健一教授と小山美砂さんによる緊急学習会「サミット報道の大問題」。5月20日、広島弁護士会館で開かれた。お二方に加え、金鎮湖さんと、山田延廣さんの4人が登壇された。
この学習会の中で特に記憶に残っていることとして、在朝被爆者に関する内容を挙げる。
広島県朝鮮人被爆者協議会会長である金鎮湖さんは、「共和国にいる被爆者は、今も置き去りにされている」と言う。広島、長崎で被爆した朝鮮人は、推定約7万人、日本に残ったのは約7000人、共和国に帰国したのは約2000人だという調査がある。
在韓被爆者は訴訟などによって、被爆者権護法の適用を受けている一方で、在朝被爆者は完全に無視されているのが現状である。2016年、米・オバマ大統領が広島を訪問した際、「原爆によって朝鮮人が亡くなったことを初めて知った」という内容の手紙を送ってきたと言う。
「日本へ行った人は国を捨てて逃げた」と言われ、日本では被爆者であることによる差別に遭うため、被爆した事実を隠し通さなければいけなかった。共和国にいた人は、原爆被害者であり、被爆者援護法が適用されていない外国人は、在朝被爆者だけ。
この問題は、韓国人犠牲者慰霊碑の問題にも関連する。
元共同通信記者、同志社大学教授、現フリージャーナリストである浅野健一さんは、日本政府は韓国、台湾、ブラジルなどに住む被爆者には、ある程度の支援を行っているが、朝鮮半島の北半分の朝鮮の被爆者については、一度も調査しておらず、何の手当もしていないと言う。
この学習会へ参加して、被爆者・被爆者手帳を持っていないヒバクシャに対して、国家が残した課題を改めて確認することができた。表面的なものだけではなく、くっきりと。
集めても集まりきらないピースのように、取りこぼしている課題が私の周りに散らばっているように感じた。そしてそれは、ヒロシマという起点を元に現在、未来まで繋がっているものとして捉えられた。
原爆が怖いままでいいから動いてみる
G7特集のドキュメンタリーを見ながら、リニューアル前の広島平和記念資料館に行った日のことを思い出す。展示物に耐えられなくなった小学生の頃の私は友人の方を借り、手で耳を塞ぎ目を瞑りながら館内を回った。「(平和学習の時間に観た)あの時の映像って、簡単に振り返れるもんじゃないよね」と弟に話す。あの時の記憶は私を立ち止まらせる、いつも同じところで、恐怖と共に留まらせる。あの映像を見なければ、これほどの原爆の悲惨さに気づけないなんて、言葉や映像で表しても表し切れない痛みは、本当に存在していいものではなかった。
断片的に聞く、戦争被害の言葉が私の日常に混じり合わさる。
毎日顔を洗う時、川や用水路に飛び込み水を汲んだ人のことを思い出す。
赤く燃える夕焼けを見て、燃える炎に消えた人を思い出す。
よく晴れた日に飛行機の音を弾くと、原爆を落とした爆撃機の存在を思い出す。
こんなことを言うのは傲慢かもしれないが、だから毎日うっすらと怖い。こうして私はいつまでも78年前の広島、キノコ雲の下で起こった事実から動けずにいたことに気づく。
それでもずっと心の中にあるのは、核兵器による被害を二度と生まない、核兵器を地球から無くすという意思。
そして、この目的のために、
思い出したくない過去を何度も何度も語り継ぐ人、
被爆者に変わって伝承していく人、
地方自治体に国に早急な転換を求め、動く人、
私のような人に現状を噛み砕いて教えてくれる人がいることを知った。
原爆の恐ろしさから抜けられずにいる時も、核兵器を無くしたいという思いに駆られている時も、自分のことを否定せずに、行ったり来たりしながら考えればいい。
拾い切れていない課題を掬った時に、具体的なアクションを起こしながら行動していきたい。
凜花 リンカ
紹介したい展示/プロジェクト
①Take it Home, for (__) Shall Not Repeat the Error. (どうかそれを持ち帰ってください、(__)の過ちを繰り返しませぬよう。)
本展示は、今年5月にG7サミットに合わせてそごう広島にて開催されたグループ展で、8月5日から15日までの期間、東京の「シノチカ」にて再び開催される。広島に投下された原爆に使用されたウランの採掘されたコンゴから、第二次世界大戦後のアメリカの核兵器実験による被爆被害までを繋げた作品が展示される。サミットにより人が集まる広島を特異的に見るだけでなく、広島を起点にした時に浮かび上がるその前後に着目することで、放射線の被害や歴史に隠されている作業員などの被爆が想起される。「核兵器が存在する限り使われる」というメッセージを感じる。
②change署名「#NoBarbenheimer 映画『バービー』と『オッペンハイマー』の配給会社に行動を求めます」
署名の発信者: 広島・長崎を忘れない 市民有志
③核兵器をなくすための「日本キャンペーン」クラウドファンディング
「日本キャンペーン」では、日本が遅くとも2030年までには、核兵器禁止条約に参加するというゴールを設定し、そのために必要なステップを具体的なアクションとして明記している。最初のステップは、締約国会議にオブザーバー参加することとしている。核兵器禁止条約を生み出す原動力になったのは、NGOの力であり、ICANに集う世界のNGOには、政府や議員に働きかけることを専門的に行っているスタッフ(ピース・ロビイスト)がたくさんいる。日本には、ピース・ロビイストがまだほとんどいないのが現状である。本クラファンサイトでは、日本がなぜ核兵器禁止条約に参加していないか、核兵器禁止条約に参加するにはどうしたらいいかなどについても詳しく記載されている。