ある地名の風景
代田の空と突き抜ける環七 daita-3
「地名の研究」といえば
日本民俗学の父と呼ばれる柳田国男ですが、
数多い著作の中に、”代田”について触れたものがあります。
前回に挙げた「巨人伝説」に関連して
「ダイダラボウの足跡」という短編が残されています。
これによると、柳田は実際に代田を訪れており、
「代田橋から南東に五~六町の場所に足跡とおぼしき
窪地があった」と記しています。
これはたぶん大正の末期ころだと思います。
現在、環七から東へ少し入った代田6丁目に
「守山テラス」という地区会館がありますが、
このあたりはちょうど代田橋の駅から南東に600mほど。
明治時代初期の地形図を見ると
このあたりに細長い谷戸があったことがわかります。
柳田の言う窪地はおそらくこの谷戸のこと、
あるいは谷戸の中にできた窪地だと思われます。
今でも守山テラスの前が緩やかな坂になって東側に下っており、
真っすぐ進むとまた上り坂になります。
つまり、一旦下って低くなった場所が谷戸の底。
昔は谷戸の奥に湧き水があったといい、
これが沢になって作った窪地なのでしょう。
もちろん今は普通の住宅地で
土地の高低も注意しないとわからない程度です。
全国にはこうした窪地と巨人伝説がくっついている例が多いようで、
近場では相模原市にもあります。
柳田は”だいた”という地名は
この窪地が元になっているといいます。
農作業に邪魔だったのか、何かしら有益だったのか、
とにかく大きい窪地は”巨人の足跡”になったわけです。
しかし、窪地があったために巨人の話が生まれたのか
巨人の話が先なのか、これはわかりません。
いつの頃か、村の人たちが
「ダイダラ窪」とか「ダイダラ谷戸」なんて呼んでいたのが
時を経て”だいた”になり、”代田”の字が当てられた・・
ということですね。
「自分たちはこれを単なる不思議と驚いてしまわず、
今少ししんみりと考えてみたいと思っている」
柳田国男はこんなことも言っています。
(世田谷区代田)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?