今日という日 2019.3.11
やっぱり今日、3月11日は色々なことを考えてしまいます。
8年前あなたは何をしていましたか?
僕は当時高校3年生で、その日友達が僕の家に泊まって遊ぶ日でした。
卒業式前だったか、後だったかはよく覚えていません。
でも、すでに大学進学は決まっていて、防災を研究する学部に行くことが決まっていました。
そして、14時46分。
僕は3階にある自分の部屋の片付けをしていたのですが、急遽親に呼び出されました。
「地震揺れたの感じなかったの?」と言われ、さぁっていう顔をしてましたが、どうやらすごいことが起きているらしいというのはNHKの中継を見ていて徐々に理解し始めました。
時間が経ち、見たのは、
気仙沼や釜石では海面が高く盛り上がり、防波堤を超えてくる黒い海の様子。
名取川から溢れ出した水が平野を逆上してビニールハウスや車を飲み込んでいく様子。
今でも当時の様子を見ると血の気が引きます。
そして大学と大学院を併せて7年。東北に何度か足を運びいろんな場所に行き、人の話を聞き、いろんな場所に行ってきました。
そして今、福島県双葉郡楢葉町にいる。
2018年4月
25歳で僕は福島県双葉郡楢葉町に移住しました。
楢葉町は大学から何回か研究室で通ったことのある場所です。
なぜ楢葉町に移住したのかはまた今度ちゃんとお話をしたいのですが、今僕が感じていることを素直に書きたいと思います。
僕の住む楢葉町の皆さんは原発事故の影響で全町民が町外に避難しました。
全町避難の期間は4年半。
4年半の間、故郷に帰れず、仲の良かった人たちとも離れて暮らしてきました。
その過程で、様々な事情で楢葉に帰らないことを決めた人もいます。
未だ帰ろうかどうしようか悩んでいる人もいます。
そんな現在、楢葉町は登録台帳上の全人口に対して約50%の3500人が暮らしています。
そんな楢葉町に1年間暮らしてみて感じたことは
自分は被災された方々の気持ちは絶対に分からないということです。
当たり前です。
この言葉の真理は、分かった気に絶対になってはいけないということです。
自分から進んで当時の話してくれる人なんていません。
僕も時々伺うことはあり、笑顔で聞きながらも、本当の意味で理解できないので反応に困ることもあります。でも聞きます。
そんな町の中では「復興」という言がよく使われます。
併せて「復興」って何、ゴールはどこ?という疑問もよく聞きます。
「復興」という言葉自体曖昧なもので答えなんてないんでしょうし、生きている限り忘れることができないことだと思うので不可能なことなのかもしれません。
でも、僕はその震災前すら知らない。
「復興」の定規を当てる土台もないのです。
だから何ができると「復興」なのかもよく分かりません。
分からないからこそできることでも、分からないからこそ、僕が考えられて、やるべきことはあるんじゃないかと思うようになりました。
僕が見るべき目標は「復興」ではないということです。
楢葉町は住んでいる人も少ないので、同じ人によく会います。
そして、みんなすごい優しくしてくれます。
時にはおかずもらったり。
何かのお礼にお菓子をもらったり。
とりあえず人の関わりが大阪に比べかなり濃密です。
今思うこと。それは、
こんな僕に対して仲良く接してくれる人たちのために何かしたい。
というのが一番の欲望です。
関わりのない人まで幸せにできるほど僕に力はありません。
だから、身近な人たちと楽しく暮らすだけでいいんじゃないかな、と。
「復興」なんて大それたことを考えなくてもいいんじゃないかな、と。
そのために僕は生きるし、これから色々とチャレンジします。
2019年3月11日
3月11日は僕にとっては今を生きるきっかけの日です。
日本中そんな人がいっぱい居るんだろうと思います。
こうしなければいけない、ああしなければいけないという、多くの場所で画一化が求められる日本で、今日3月11日は色んな人の想いが溢れる日だと思います。
でも、色んな想いがあってもいいじゃないかなと思います。
そんな今日、楢葉町に住む同い年の友達が今日結婚しました。
その友達がいなければ、多分僕は楢葉町に住んでいなかったと思います。
僕の中では恩人の一人です。
時々忘れそうになるけれど、本当に感謝しないといけない存在。
2人の結婚報告の写真を見てなんだか、嬉しいような、むず痒いようなよく分からない気持ちになりました。
多分直接は恥ずかしくて「おめでとう」くらいしか言えないと思うので、見ないだろうけどここに書いておきます。
結婚してもこれからも変わらず、仲良くしてもらえると嬉しいです。
3月11日
震災という辛い想いを馳せる中で、嬉しいことが1つできた。
そんな単なる1日でした。