一緒に観た人 2024年7月某日


※一部、映画『君たちはどう生きるか』の内容に触れています。



映画『君たちはどう生きるか』を観た。一人ではなく、二人で観た。映画館ではなく、音響の整った個室スペースを使ってDVDで観た。幼少期から聴覚過敏があり、映画館の大きな音に耐えられない私を、一緒に観た人が気遣ってくれたのだ。ありがたい、ありがたい。

鑑賞会が終わった後の夕方、一緒に観た人と二人でふらふらと街中を散歩した。でもすぐに、元々苦手だったその街の煩さに全く耐えられなくなってしまった。2時間ずっと個室に座って見ていたから足は全く疲れていないのに。ぼうっとしてしまい、心がどこかに飛んだままになったようで全然歩けなかった。休憩すべきか否か二人そろって考えながら、先程得た情報の多さにパンクしそうになりながら、ひたすらに感想を話し合う時間と共に、もしかするととんでもない作品を観たのではないかと思うようになった。

映画を観た自分が最初に抱いた印象は、多分大方世間で言われていたそれと同じで、難解というか、考える時間が必要で、一度観るだけでは頭が追いつかなかった。でもとにかくパワフルで魂のごった返す話だったように思う。

初めて書籍の『君たちはどう生きるか』を読んだのは10年以上も前、小学6年生の終わり頃だった。入学することになった中学校から入学前なのに宿題が出て、読書感想文のようなものを書かなくてはいけなかったのだ。その題材がこの『君たちはどう生きるか』だった。それくらい前のことなので内容もおぼろげだったが、眞人が同書に涙していた理由には彼のそれまでの描写からうん、うん。と思う。眞人は背景や性格もあり鬱々とした子だ。これまでの宮崎作品にはいなかったような。

一緒に観た人は「まるで私小説を読んでいるよう」と表していた。確かに、あそこまで「宮﨑駿」本人が全面に出ていた映画ってあっただろうか。彼が生きて感じたこれまでをぶつけるような、そんな映画は。などと表現しておきつつ多分、私が理解できたことなど一欠片に過ぎないし、そもそも理解されることを目的に作られた映像ではないような気さえする。めいがトトロに会いに潜った茂みのような場所から始まり、カルチェラタンに似た部屋、カルシファーのキッチンらしき場所、釜爺のような頭のアオサギ(の中身)。全てあくまでモチーフに過ぎず、従って込められた意味などこちらの勝手な解釈かもしれない。作品ができていく中で、自然発生的にああなったのかもしれない。でも、これまでに見たことのあるようでどれも全くない、ジブリの集会のような空間が目の前に描かれる。それが『君たちはどう生きるか』という大きなタイトルを背負っている。それは単なる書き手とスタジオの手癖で済まされるのだろうか。何一つ分かっていないような気がしながら、そのようなことを感じた。すぐには思わなかった。色々考えを巡らせ、一緒に観た人と話し合ううちにそう思うようになった。

一緒に観た人は、最後の塔が崩れてゆく様を見て、あれは監督やジブリが培ってきた歴史の象徴のようなもので、その終わりを表しているのではないかと言った。それを聞くまで考えなかったが、塔の中から丸々としたセキセイインコたちが荷物を持ってドヤドヤと出てきては自我のないトリになっていくのを見ながら「そうかもしれないな」と思った。それにしても至る所に鳥が出てくる。全員ゆるくてぽわぽわ。

多分何も関係ないが、自分は主題歌『地球儀』にも鳥が出てきたと勝手に思っている。音楽内で使われるバグパイプの形がどことなく鳥に似ているからだ。チェック柄な所も牧歌的な音も魅力溢れる楽器。鳥っぽいと思うのは『ひつじのショーン』を観たからかもしれない(主人公のショーンが、落ちていたバグパイプを動かず弱った鳥と勘違いして、仲間たちと懸命に看病する……そういう話があります)。


宮崎監督が作品を出すたびにこれが最後だ最後だと引退詐欺をしてきたのは有名な話だ。この映画の後、監督は作品を出すだろうか。一緒に観た人とそんな話もした。これを機に本当に引退してしまう気もするし、ある日突然『毛虫のボロ2』とか『めいと孫ねこバス』とか出してくださる気もする。主題歌を作った米津玄師さんは「『地球儀』は『君たちはどう生きるか』の為の曲であり、わたしが今まで宮崎さんから受けとったものをお返しする為の曲でもあります」「今まで映画を作り続けてくれてありがとうございました。そしてこれからもずっと作り続けてください」と言っていた。本当に、作り続けてほしいなと思う。映画や漫画や、何か私たちに発信する形にするかどうかは別として、彼の中で留まるのでもいいから、ただ今この時間にも、彼の中で作品が作られ続けていたらいいなと思う。


一緒に観た人とは話が尽きず、最後自宅に着いた時にも話し足りず、どちらかが提案するでもなく付近の駐車場まで歩いて行ってそこでまた少し話した。別れ際が惜しかった。

一緒に観た人と私は、今日が終わっても明日も明後日もずっと一緒にいる。私は彼との毎日の中で、この先この人と一緒ならどう生きようが素敵な人生なのではないかと思うようになっていた。どう生きようが何があろうが一緒にいられたらそれでいい。間違いない。でもそれは、どう生きるかなんて考えなくたっていい、ということではないのだと分かった。どう生きるかという問いを目の前に、二人であれこれ考え伝え合った今日がとても楽しかったからだ。

その日の帰り道は真夏日の中ながら涼しい風が吹き、とても過ごしやすかった。観ながら一緒に食べたチョコアイスとスナック菓子の味も、その後変な心地で歩いた街も含めて、今日のことはずっと忘れない気がする。

私は、私たちはどう生きるんだろうか。今日だけで答えは出せなかった。またきっとどこかで考えると思う。それで今日のことも一緒に思い出すと思う。一緒に観た人と二人でいたらすごく大丈夫な気がするし、一方で何が起こるか分からなくもある。その度今日と同じように二人で時間も忘れて話し続ける。それはきっと幸せなことだ、とても。

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