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私の中でのイエスへの道①

真実は人の数だけある』のつづきです。

後で思えばなのですが、
イエスが十字架に磔られているのをずっと直視できなかった。絵も見たくなかった。

ただそれだけ。

それ以外は、何の興味もなければご縁もなかった。

2008年自己探求を始めると、あの時代に関係する人と出会いはじめる。

それでも自分には関係ないと思っていた。

完全なる人ごと。

へーそういう世界もあるんだな。

でもなぜか、2010年サロンをオープンさせ、ソウルワークをはじめてから、聖書で自分をがんじがらめに縛り付け、苦しんでいる人が一部来るようになった。

中には聖書をリュックに入れて、いつも持ち歩いているという人までいた。

私は聖書を読んだこともなければ、知識もまったくない。

それなのに、人を縛りつけるようなこと、苦しめること、イエスはそんなこと言ってないってことだけは、はっきりわかる感覚があった。

なぜだか全くわからないし、根拠もない。

宗教を否定する気もないので、

自分の発言に責任を持ち、

ただ私が感じるだけなんですがと、クライアントさんにその時感じたことを伝える。

私は、人の支配のエネルギーを感じるところに違和感を感じ、

これは人を支配するために、"イエスが言ったこと"にされてる感じがします。

真にイエスが言ったことではないように感じます。

そして、イエスはこう言ってるような感じがします、と、その時私が感じる真実を話す。

それがクライアントさんの魂に響き、解放される。

ということがたびたびあった。

自分でも不思議だった。
神様と繋がってるからわかるだけ、
『神様ありがとうございます。』
と手を合わせて、神様のお仕事を少しでもさせていただいたことに、毎度感謝していました。

こういうのが続いたことで、最初は、宗教は人を支配するためにつくられたのか、という偏見や固定観念を持ちそうになったのですが、宗教にも層があることがわかってきた。

キリスト教なら、イエス、
仏教なら仏陀(お釈迦様)、
○○教なら○○の神様、

などの教えを、きちんと自分の中で真実かどうか見極め、真実だけを崇拝している層と、途中で人の支配が入ってることに気づかず、それを鵜呑みにしてしまい、完全に惑わされている、もしくは自分軸を失い(空け渡してしまい)依存してしまっている層。
後者の方がまだまだ圧倒的に多いように感じる。
でも前者に会ったことがあるから、変な固定観念を持たずに済んだ。

宗教が良いか悪いかの問題でなく、
結局、

魂で生きているか、
自分の中の真実に辿り着いているか、


なんだとわかってきた。

つづく。







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