阡陌陟記(せんぱくしょうき)

(じょ)
 この小録(しょうろく)を名付(なづ)けて阡陌陟記(せんぱくしょうき)とする。東西南北(とうざいなんぼく)わたりあるきと訓(よ)むのであるが、実(じつ)は四維(しゆい)上下(じょうげ)を求(もと)めて陟記(しょうき)する意(い)を含(ふく)めている。東西南北(とうざいなんぼく)は仏(ほとけ)の領(りょう)する所(ところ)、四維上下(しゆいじょうげ)の一隅(いちぐう)は上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の知(し)らす所(ところ)の意(い)、前者(ぜんしゃ)は在世正像末(ざいせしょうぞうまつ)の末法(まっぽう)、後者(こうしゃ)を滅後末法(めつごまっぽう)の意(い)を含(ふく)めることにする。今(いま)各項目(かくこうもく)を断片(だんぺん)として文字(もんじ)にしてみた。この中(なか)から何(なに)か新(あたら)しく、而(しか)も古(ふる)い富士(ふじ)の伝統(でんとう)に立(た)った法門(ほうもん)を考(かんが)えだしてもらいたい。 
昭和55年12月 臥龍山房(がりゅうさんぼう)

読みごたえありますが難解です。
少しずつですが読み解いてみます。

阡陌」は道路、あぜ道のこと。 または、道が張り巡らされていること。
「陟記」は法門を求めて人里を渡り歩くという事のようです。(しょうき)と読むようで、こざとへんに歩くと書くのであるが漢字には無い。作者に尋ねたところ、「漢字にはないが法門じゃからこれでええ」との事でした。
テキストでは便宜上「陟」の字を宛てました。

阡陌陟記には続編があり、仏道雑記・大石寺法門と日蓮正宗伝統法義・大石寺法門と続くのであるが、「阡陌」に関する記述がある。
「阡陌とは仏法所住の処である。戒定恵はそこから出現しているのである。その意をもってまず阡陌をあげ、三学を取り出したのである。」また、
「阡陌の二字は御書にないといい、次上の語は日本語にはないという。それらの語が見付かるまで開目抄や本尊抄を読んでみるとよい。ないというのは読んでいない何よりの証拠である。御書も読まないで御書にないとは、ちと度が過ぎているようである。」などの記述もある。
ネットで日蓮御書を検索してみると本尊抄に、
「止観の七に云く「昔鄴洛の禅師名河海に播き住するときは四方雲の如くに仰ぎ去るときは阡陌群を成し隠隠轟轟亦何の利益か有る、臨終に皆悔ゆ」等云云」と引用されている。

一隅について記述順に並べてみます。
「一隅2/46」
都大路(みやこおおじ)の東西南北(とうざいなんぼく)を陟(わた)り歩いて、最後丑寅(うしとら)の一隅(いちぐう)を見付けるまでが目標であった。師弟一ケ(していいっか)の成道(じょうどう)の場(ば)を見付(みつ)ければ、それで一応(いちおう)目的は達(たっ)したので五巻で止(や)めることにしたが、そこまで来て捨ておくことも出来ないので、次は成道を目標にして始めたのが仏道雑記(ぶつどうぞうき)である。

「一隅3/46」
丑寅(うしとら)の一隅(いちぐう)と成道(じょうどう)と、それが最大目標であることはいうまでもないことで、その中心になるのが戒旦(かいだん)の本尊(ほんぞん)であり、その根本になるのが己心(こしん)の一念三千法門(いちねんさんぜん)であることは先刻(せんこく)御承知(ごしょうち)の筈(はず)。而(しか)も今の宗門はその己心を捨てろというところまで来てしまっている。

「一隅5/46」
叡山(えいざん)では今、一隅運動(いちぐううんどう)が盛んに説かれているが、これは新解釈(しんかいしゃく)によっているのではないかと思う。大石寺(たいせきじ)の伝(つた)える法門(ほうもん)では、丑寅(うしとら)とは東北(とうほく)の一隅(いちぐう)をさしているようである。それは、今(いま)世俗(せぞく)にいう一隅とは異(こと)なっている。丑寅の一隅とは諸仏(しょぶつ)の成道(じょうどう)する所(ところ)、衆生(しゅじょう)もまたそれを受持(じゅじ)することによって成道があり得(う)るのである。一隅運動とは、本来(ほんらい)衆生(しゅじょう)の成道につながるもののようである。受持即持戒(じゅじそくじかい)といわれるのも、成道につながっているように思う。衆生が成道することが出来れば天下泰平(てんかたいへい)である。即(すなわ)ち一隅運動も完了ということである。

「一隅11/46」
学生式(がくしょうしき)の一隅とは今に定(さだま)らないようであるが、これは大石寺(たいせきじ)にもある語(ご)であるが、そこでは丑寅(うしとら)の一隅(いちぐう
)であり、諸仏(しょぶつ)の成道の場(ば)を指(さ)しているのである。それは受持(じゅじ)によって衆生(しゅじょう)の成道にも大きな意義(いぎ)をもっているようである。この語は文底秘沈(もんていひちん)の法門に幾分(いくぶん)の関連(かんれん)を持っているのかもしれない。今の叡山(えいざん)の一隅(いちぐう
)の解釈(かいしゃく)は、世俗(せぞく)の縁(えん)に強(つよ)くひかれているのではないかと思う。この一隅も古いものが失なわれて、新しく意義付(いぎづ)けられているようである。