満足な豚にも不満足なソクラテスにもなれない
世間知らずの大学一年生です。夏休みの暇つぶし
J・S・ミルの格言に「満足な豚よりも不満足な人間でありたい。満足なバカよりも不満足なソクラテスでありたい。」なんてものがありますよね。ここでぼくが主張したいのはたった一言で、私たちは満足な豚になんてなれやしないということ。
この言葉のイメージで言えば、あたかも、向上心の高い、立派な人間だけが不満足な人間ないしはソクラテスを目指し、その他の凡夫はブヒブヒ鳴いているみたいですが(※個人の感想です)、全く逆だとは思いませんか?
ぼくは時折思います、あぁ満足な豚になれたらどれほど幸せだろうかと。人間はなまじ視野が広いせいで幸福を見落としているに違いないと思うのです。幸せの青い鳥然り。
幸せっていうのは距離で言えば自分とゼロ距離のところにあるし、視野が広ければ広いほど、盲点となる場所にあるのではないでしょうか。
この流れで言えば、幸福とは退屈の別名だと思うのです。
私たちは比較でしか物事を判断できない。生活の充実度の折れ線グラフの傾きが限りなく0に近いプラスであれば、それはもう確実に幸せ者だと思うのです。問題はこの退屈に耐えられるかどうか。。。それができる人は、晴れて満足な豚の仲間入りというわけです。
でもこれって実際、凡夫にとって耐えうるものでしょうか??いたって普通であることを自称するぼくの目には耐えがたいの物に映ります。というか、人間であることをやめないとできない芸当だと思います。
これもまた勝手な自己解釈ですが、仏教でいう悟りなんかはこの方向性に向かっていくものだと思うのです。
話は変わりますが、最近、「この世界の片隅に」という映画を見ました。この映画に関する感想は、言葉にならないというか、持ち合わせていないのですが、鑑賞後に食べた白米のうまいことといったら...!おかず抜きでお茶碗一杯食べたのは人生でも数えるほどだったと思います。
これって先ほどの話に照らし合わせれば、生活の充実度を疑似的に上下させたってことになるのだと思います。私たちは、こんな形でしか幸福を得られない、不満足な人間です。満足な豚になることも、不満足な賢者にもなれない、だから私たちは本を読み、映画を見る。
未来に大した展望もなく、享楽的な人生を送る、今時流行りの大学生の独り言でした。