気軽に賛美を楽しむ者たちの神への冒瀆

「われわれはなぜ神がこの当時、感謝の意の表現として、動物を捧げるように命じられたのかを知っている。それは民らが、他の方法で潔められないかぎりは、みずからの不潔さのゆえに、神への賛美さえも汚れ、堕落したものとなることに気づくためである。われわれが神をほめたたえるのは、まさにこの目的のためであるが、しかもわれわれは、汚れた唇のゆえに、神を冒瀆し奉るのである。・・・われわれが神に捧げる賛美は、イエス・キリストご自身のゆえにこそ、神に喜ばれるものとなるのである。(へブル10:7)。ここで預言者は燔祭の芳香をほめたたえる。これらは確かに鼻につくような悪臭を天に昇らせるだけのことであるが、しかも、犠牲として捧げる牡牛やその他の動物が、神のみ前でかぐわしいのは、それらがイエス・キリストの型だからである。」
『カルヴァン 旧約聖書注解 詩篇二』[詩篇66篇15節 p.323-324]
(ジャン・カルヴァン 著 出村彰 訳 新教出版社)より

イエス・キリストの型であった、旧約時代の動物の犠牲の意味、

イエス・キリストの血の意味を真に知らずして、

なぜ神への賛美をささげることができるだろうか。

賛美を気軽に楽しんでいる者たちは、

イエス・キリストを本当に必要としてはおらず、

イエス・キリスト抜きで、

神に喜ばれる賛美をささげることができると

自分たちで決め込んでいる。

これほどの冒瀆があるだろうか。


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