「半分の真実は嘘よりも悪い。」

「・・・何も得ていない方が、まがいものをつかまされているよりもましである。・・・まがいものほど危険なものはない。にせのキリスト教は何よりも大きな危険である。「半分の真実は嘘よりも悪い。」」
『ロイドジョンズ ローマ書講解8:5~8:17 神の子ら』[22. 御霊のバプテスマと満たし](D・M・ロイドジョンズ 著 渡部謙一 訳 いのちのことば社)より

これは、有名で広く受け入れられており、日本のキリスト教界でもよく知られている19世紀(~20世紀)の人物による教えについて言われているところです。
御霊のバプテスマという大いなる祝福を「「信仰によって取りなさい。」と告げ、そのことゆえに神に感謝しなさい。なぜなら、私たちはそれを取ったからです。万事何も問題ないと考えなさいと告げる」教えです。この教えは、「私たちが自分を吟味し、探ることを妨げ、自分を試し、検証することを妨げ、自分の浅薄さを罪に定めること、より大きく深いものを求めることを妨げるような教え」であり、「呪うべきものと言うしかない」とロイドジョンズ博士は語っています。
キリスト教信仰というのは、事実でもないことを事実であるかのように信じ込ませるようなものではありません。その祝福は、ロイドジョンズ博士が説いている通り、私たちの側で「取る」のではなく、あくまでも「受ける」という完全に受動的なものであり、受けたことをはっきりと知り、感謝しなさいなどと言われる必要なく、感謝と賛美が湧き出るものです。

私は以前、仕事の研修で、拳を上に高くあげながら「やったー!やったー!やったー!」と、毎朝鏡を見ながらするように、そうすると本当に「やったー!」という気持ちでその日を過ごすことができるから、と言われたことがあります。
何の事実も根拠もありませんが、ただそのような前向きな気分になるようにだけ持っていくための手軽な自己操作です。
しかし残念ながら、人間というのはそこまで単純な生き物ではなく、人間の心というのはとんでもなく複雑なもので、毎日そのような手軽な操作は通用しません。ダメな時はそんなことをすることもできず、あるいはそのようにしたとしても、前向きな気持ちにもっていけない自分をむしろより圧迫してしまい、より自分を落ち込ませてしまいます。
「信仰によって取りなさい」という教えも、「信仰」につけ込み、その心に圧力をかけて操るという手の込んだものであるだけに非常に憤りを覚えますが、原理は同じであると思います。

現在のキリスト教界は特に、神は愛であり、恵み深く、あわれみ深く、慈しみ深いお方であられると強調して言います。それは真実です。
しかし神は聖なるお方、義なるお方であられ、罪や悪を完全に憎まれること、罪人に怒りを燃やしておられることは神というお方についての真実ではないかのような態度を取っています。
私たちが罪人であること、その罪、汚れもそれほど大した問題ではないような認識しか持たせません。
そして簡単に信仰によって赦しを受け取ること、信仰によって愛を受け取ることを勧めます。
何でもかんでもその教えを当てはめているかのような有様です。
事実を事実として真に認めず、受け取りたいようなことだけ受け取ろうとするところに、信仰など存在しません。

しかしいずれにしても、にせのキリスト教の危険極まりないところは、それが全く真実らしくみえるところであり、実際に半分は真実であるところです。そして半分は偽りと欺きに満ちており、結局はにせのキリスト教でしかないところです。
まるごとすべてが嘘である方がずっとましです。

まがいもののキリスト教に私は本当に苦しんできました。
そして現在苦しめられている方々を覚えさせられ、このように書いています。

[キリスト教とは]https://lamb-life-mission.webnode.jp/キリスト教とは/

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