【W】興味の変遷③−就職、転職、現在
関心対象の推移について書き起こすだけのつもりが、いつのまにやら長々と大学生〜社会人9年目の現在までを語っています。今回が多分その最終回です。
修士課程を終え、わたしは小売の大手企業に就職した。その会社を選んだ理由は、ずばり、伝統工芸の大きな催事を毎年やっているから。
「工芸」という新たな関心テーマを見つけたわたしは、心にぽっかり空いた穴を埋めるべく、過激にそのジャンルにのめり込んだ。人事にもその熱量が伝わったのか、希望が叶って工芸品を扱う部署で働けることとなった。生活工芸から云億円する芸術作品まで広く関わることができるという点で、最高の職場だったと思う。ただのファンであれば全く接点をもつことができない、千家十職や人間国宝の先生方とお仕事ができたのも貴重な経験だった。
休みの日は美術館に繁く通い、関連の書籍を読み漁り、地方に足を運んで各地の伝統工芸を見てまわった。工芸となると茶道具を扱うことが多く、読む知識だけでは不十分だと思い茶道のお稽古にも通い始めた。着付けを習って、和装も嗜んだ。陶芸・金工・木竹工・漆工・ガラス…といろんなジャンルがあって、素材も技術も多種多様で、紡いできた長い歴史がそれぞれにあって、物故から新進気鋭の若手まで数えきれない魅力的な作家がいて。噛めば噛むほど面白い!そんな風に夢中になって取り組んでいたのだけれど…。
そんな社会人生活を5年ほど続けたところで、ふと足が止まった。「もういいかな。」
学ぶべきことはもっといっぱいあるはず。知らないことはまだまだ山ほどあるに違いない。だけれども、「これ以上やっても、見える景色は変わらなさそう」感が拭えない。自分の中での飽和点に達してしまったようだった。
もう一つ心が離れた理由として、そのあたりのタイミングで仕事とは何かをようやく理解したというのも挙げられる。
仕事とは、自分以外の他者のために行うものだと思う。たとえ自分自身の生活のために仕方なくやっているとしても、その行為自体は、誰かのため、もしくは社会のためになることであり、だからお金が、ひいては自分のもらえるお給金が発生する。この点を若かりし自分はわかっていなかった。職場を、自分の求める知識・経験を得られる自己成長の場所だと認識していた。もちろん、ある意味で成長の場ではあるのだが、それは独りよがりなものでは決してない。やりたくないことをやり、人間関係のしがらみに喘ぎ、社会の厳しさにあてられる中で、自分以外の他者に貢献できる何かしらの能力が磨かれること。これこそ仕事を通して得られる成長なのだと思う。
わたしは、工芸の勉強がしたくてその会社に入った。希望は叶えられたが、肝心の「仕事」となると、てんで冴えなかった。小売業である以上、当然ながらお客様の満足を得ること=売上をつくることが何よりも重視される。他方わたしの持ち合わせた能力と性格は、全く商売向きではなかった。接客は嫌い、数字に弱い、交渉も損得勘定も苦手。先輩社員に「学問に寄りすぎてはいけないよ」と苦言を呈されたのが懐かしい。展示会の企画をしても、図録の挨拶文は賞賛されるのに、売上はからきし。とある催事の朝礼で、確か陶芸家の小山耕一先生が仰っていた言葉が印象深い。「あなたたち(わたし含め社員)がやっているのは、美術史をつくる仕事だ。売る人がいて買う人がいることで、作品は生み出される。」そんなような主旨だった。わたしは自分の仕事を誇りに思うと同時に、でも、全然売ってないしな…と自身に対して残念な気持ちになるのだった。
克服しようと努力はした。その中で、前述のような仕事人としての成長はできた気がする。でも、人はそうそう劇的には変わらない。不向きなものは不向きなまま、自信を無くし、フラストレーションは溜まり続け、将来に明るいビジョンを見出せないでいた。肝心要の領域で満足に立ち振る舞えない仕事を、この先何十年も続けるのか?そんな迷いもあいまって、工芸熱は徐々に冷めていったと言える。今後の身の振り方について考えるようになり、人生で何を大事にしていきたいか、自分の価値観を整理することにした。
そして気づいた。わたしは、自分のやりたいことのために、限られたリソースを費やしたい。やりたいこととは、やはり大学院時代の研究。自分のためということは、他者のためには何もしたくないということと同義で、それすなわち、「働きたくないでござる」!
大学院に戻るという選択肢が頭をよぎったが、すぐ打ち消した。現代の日本で、人文系研究者として身を立てるというのは現実的ではない。それに、自分のことがよくわかってきて、研究者は向いてないとも思った。とはいえ、ニートになって両親の脛をかじり続けることも、パトロンとしてお金持ちの旦那さんを見つけることも現実的ではない訳で、自活(仕事)していかなくてはならない。では、得意なことを生かして、無理なくストレス少なく働ける環境にいこう。ひとまずそう決断し、事務職に転向した。事務仕事は全く苦ではない。むしろ好きな方だ。計画的に忍耐強く取り組むことができるのは強みだし、比較的効率よく煩雑な業務を処理できる方だと自負している。(事務職には致命的といえるが、そそっかしいのでケアレスミスは結構ある。へへ。)
結果、給料は多少減ったが、休みの日はもちろん、平日仕事終わりにも自分の時間がつくれるようになった。気力も体力も余裕があって、好きなことに費やせる。しかも、とある人文系研究機関のポストに就くことができた。我慢しなきゃならないことはもちろん仕事だからあるけれど、自分がこよなく愛する人文学に間接的にでも貢献できるなら、やぶさかではない。そんな感じで、転職先には現状満足している。
では、空いたリソースを使って、自分のために何をしようか。転職後もしばらくは、茶道をやったり書道に手を出してみたり、工芸熱の延長で、日本の美を探求していた。「日本人として、自分の国のことを学んだ方がいいんじゃないか。」留学中、至極弱っていたときに浮かんだその考えがずっとわたしの中核に居座っていたのである。しかし、実際のところは大学院時代の研究に未練たらたらなのであった。
前職時代、あれは2019年1月、年始一発目のお仕事で、わたしは元多摩美術大学教授の本江邦夫先生と半日ほど一緒に過ごした。展覧会を予定している作家さんの図録に寄稿していただくのが目的だったが、ゆっくり味わうように作品を鑑賞され、作家さんとこれまでの流れを優雅に語らい、夕ご飯までご一緒した。わたしはただの企画の担当者として同席しただけだったが、本江先生はわたしにも話を振ってくださった。大学院でやっていた研究について少しだけ説明すると、「続けないなんてもったいない」と言ってくださった。とてもとても嬉しかった。「働きながらでも、研究はできるからね」とも仰った。当時、限界に近い状態で働き通していたときに、この言葉は現実味を帯なかった。でも、転職して多少余力がある今は響く。もう一度やるか。(尚、本江先生はその年の6月に急逝されました。先生がくださった激励のお言葉とあたたかなお心遣いは、ずっとわたしの宝物です。)
専門家としてではなく、単なる愛好家として。趣味として。そう思えば、学術的な立証のために事細かに精査する必要なし。業績のためにすぐ形になりそうな興味のない研究テーマを選ぶことも、自分のためだけに探求したいのに、社会のためみたく計画書に美辞麗句を書き連ねる(好きなものに関して率直でいられない)ことをしなくてもいい。現代日本と全く関係ないものを追究することに後ろめたさを感じる必要もなし。気楽な気持ちで、面白そう!と心が躍る方に知的欲求を転がしていけばいい。ようやっと最近、そう思えるようになった。そこで、現在の関心テーマに行き着く。
「ルネサンスはいかにして起こったのか」
あれ?裸のヴィーナス像がキリスト教の文脈でポジティブな意味合いを附されるようになる背景を考察するんじゃなかったの?と思ってくださった方、ここまで話を追ってきてくださり有難うございます。そう、ピンポイントでいえば、それが最も関心を寄せるテーマである。しかし、それ以外にも、ここでは書ききれない大小様々な問いがあるのだ。まず、調べていくうちに、ジョヴァンニ・ピサーノ自体が好きになり、そうなるとお父さんのニコラ・ピサーノもいいよね、となって、そこから派生してフェデリコ2世やフランス・ゴシックも知りたくなり…一方、キリスト教七つの美徳の視覚的表現を突き詰めていけば、トマス・アクィナスはじめ当時の中世哲学、托鉢修道会、説教、記憶術…と一つのことを考察し尽くす前に、次から次へと新しい疑問がやってきて、自分が何を目的として勉強しているのか、しばしば方向性を見失う。面白くてやっているだけだから、厳密に定める必要はないのだけれど、現在の興味をまるっと包括するような大きなテーマを設けようと思い、上記のものに至った。
俗に「暗黒」と形容される中世。その間一旦失われた古典古代の合理主義・自然主義・人間主義が再び芽吹く(つまり、ルネサンスの)兆しを、13世紀-14世紀前半のイタリアで活動した彫刻家ピサーノ父子の作品に見て、その成立背景を自分の言葉でまとめていきたい。それをざっくりと表現したのが、先に掲げたテーマである。
これには実は裏テーマもあるのだが、次回はそのことについて書いてみようと思う。