舞台:ぺぺぺの会 「夢の旧作」
2019年8月6日(火)
今日は広島原爆の日。
死刑執行のなくならない日本。死刑執行の速報にもやや慣れてきた感じさえある。
芸術が公権力に「検閲」される日本。
戦後憲法裁判の記録は多数廃棄される日本。
最近、オーウェルの『1984』の世界にまで近づいてきているような気がしてならない。ディストピアだ。これからどうなってしまうのか。こんなことも言えなくなる日が来るんだろうな、と思うと恐怖でしかない。
今日は、おとなりの研究室の同僚にお声がけいただき、ぺぺぺの会 舞台「夢の旧作」を観に行ってきた。
以前からお声がけいただいてはいたのだが、日程等々が合わずぺぺぺの会の観劇は今回が初めてになった。ぺぺぺの会がどういう世界観でどんなモノをつくっているのかは不勉強なままでの観劇である。
さて、印象に残った部分の感想を。
まず、開始前の注意事項。
気分が悪くなったら、構わず挙手して、係のものを呼んでもいいと伝えられる。
この段階ではどんな気持ち悪さかは予測できないが、とりあえず、なにかしら気持ち悪い状況が来るんだろうなとわかる。
そして、注意事項の後に、10分の休憩時間。
これは、もはや、休憩なんかではなかった。
白色の上下を着た人たちが、規則正しく一糸乱れぬ行進をする。
呼吸と時折聞こえるブザーのような「ムーーーーン」という音。
あぁ、気持ち悪い。こりゃ、心して、みなきゃ。と思う。
本編が始まる。
真っ白なシャツとパンツを着た人たちが、行進して入ってくる。
そして、いわゆる「番号はじめ!」である。
指揮官の「番号!」という言葉に続いて、
「1」、「2」、「3」、「4」、「5」、「6」、「7」、「8」
と、各々つけられた番号を叫ぶ。
指揮官は気に入らない「番号」のところに近づいて、「番号」の顔を凝視したり、頭を叩いたりする。これが幾度となく繰り返される。
そして、ついに、「4」が番号を唱えられなくなる。
「1」、「2」、「3」、「・」、「5」、「6」、「7」、「8」
唱えられなくなると、指揮官はさらに暴力的になる。
永遠と番号は唱え続けさせられる。
終わらない。
番号「4」が指揮官に暴力を振るわれていようと、もちろん周りは助けない。
それ以上に、指揮官からの「番号」の合図に答えることに必死である。
番号を叫ぶ声とともに、背景にはそこでの「規約」が映し出されている。
5、自我の所有権は個人から集団へ譲渡される
6、個人の身体の所有権もまた集団へ譲渡される
7、集団が害悪と判別したものに直面した場合
集団の存続のために個人はそれを取り除かなければならない
-----「規約」一部抜粋
番号を唱えるのが終わり、指揮官は不適な笑みでその場から去る。
「番号」たちは容赦無く「4」に怒りの視線を向け、足早にその場から離れていく。
「4」は一人で、叫びもがくことしかできない。
全体主義だった。舞台を通して客観的に全体主義の世界を見るとこんなにも気持ち悪いものなのか、と改めて思わされる。
自分は現実世界の「4」なのか、それともその他の「番号」なのか。
『他の「番号」はなんで、「4」を助けないの?かわいそうじゃん!』
って言える世界に今の現実世界はなれるのだろうか。
期待は薄いだろうなと思う。冒頭のようなことが最近起きていから尚更。そんなことを思った。
次に、中盤の「からあげ(平和)」。
からあげで考える。
とまぁ、また、意味不明な(笑)。さっきまでの落差よ。と思う。
背景の文字は切り替わるが、観客は女が一人でフライドチキンを食べる様子をただただ見させられている。
観客の私は、知らない女が目の前でフライドチキンを食べる様子をまじまじと見ていた。その女は、すごく美味しそうに食べるのだ。しかも、幸せそうなのだ。
背景の文字からは恐怖しか感じられないのに、チキンを食べる女は幸せそうなのだ。
無関心、深く考えないこと、がどれほど人を幸せにするかを気がつかせてくれる。同時に、それらは周囲の危険な状況から目をそらさせ、人を麻痺させていく。
そして、最後は「忘却」。
白い人たちが、金槌で机を力一杯叩く。
その一発一発の音が、叫びで悔しさで悲鳴なのかもしれない。
いろんなことを忘れる。忘れてはいけないことも、覚えてなきゃいけないことも忘れてしまう。忘れてしまいたくない、と思っても、忘れることを強要されることもある。でも、何かを信じていたい。
そんな感じだろうか。
ラストは、白い人たちが、観客席をジロリと見る。
そして、一人づつ、集団からの解放に立ち向かう様子をみせ、舞台は幕を閉じる。
白い人たちが、観客席を見たときに、今まで、観客は「見る側」だったのに、「見られる側」に転じる。ここが私、個人的には一番ゾッとした。
「この舞台は他所の世界じゃないんだぞ」と突きつけられているような気持ちになった。
以上が印象に残った部分とそれらへの感想だ。
違うことをひとつ。
この舞台は、スマホでの撮影を許可されていた。撮れるかどうかは置いといて、写真はバシバシ撮ってもいい。
また、Twitter上でリアルタイムでの解説しているから、SNSを見ながら舞台を見ても構わないこと告げられる。
いい試みだなと、思った。
少し前に、「舞台の時はスマホやめてください!」「舞台上から目立つんです!」というのがTwitterで話題になっていた。これへの挑戦だな!と受けとった。
しかしだな、「スマホ使ってもいいよ」「写真とってもいいよ」と言われても、実際できないのだ。舞台に引き込まれすぎて。
*あと、これは仕掛けなのか、わからないけど、すごくネット繋がりにくくて、本編始まる前にリアルタイムの解説みるのは諦めた。仕掛けだとしたら、めちゃくちゃ面白い。もう何を信じていいのかわかんなくなっちゃうね。最高。
しばらく、有名な演出家と著名な俳優たちが集められた完成品のような舞台ばかりをみていたのもあって、この感じは久しぶりだった。若くて、チャレンジングで、熱くていい。こういうのもたまにはいいなと。また機会があれば観にいこう。
===参考までに===
ジョージ・オーウェル
>2009『一九八四年[新訳版]』高橋和久訳, ハヤカワepi文庫.
*写真は全て筆者撮影
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