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私の義妹は紀州犬


 夫はひとりっ子だ。

世間では

「きょうだいが居ないと可哀想。」

なんて言ったり言われたりするようだが、夫本人から、きょうだいが居ないことを嘆く言葉を聞いたことは無い。

それに、彼には「妹」と呼ぶ紀州犬のカイちゃんが居た。


彼女は頭も夫との仲もとても良かったらしい。私はそのエピソードを聞くといつも、子どもの頃によく聞いた「犬と人間は相棒」という表現を思い出す。懐かしのアニメ特集の番組で、「フランダースの犬」や「名犬ラッシー」は定番だった。


夫の家にカイちゃんがやってきたのは、彼が中学2年生の時だ。

義父の知り合いの家で産まれた、オス3匹・メス1匹の紀州犬の仔。その中で、唯一のメスだったカイちゃんだけ飼い主が決まっていなかった。

というのも、仔の親犬は当時、猟が得意な甲斐犬だと誤解されており

「猟犬を貰うなら、オスが良い。」

と兄弟から引き取られていったのだ。

動物好きで多くの熱帯魚やインコを飼っていた義父。犬も2代飼ったが、カイちゃんが産まれた頃、2代目の犬を喪っていた。

そんな犬種や雌雄にこだわらない義父に声がかかり、カイちゃんは夫一家に加わることになる。


 仔犬だった彼女は、春になるまでの半年を居間の一角で育てられた。春が来ると、庭の犬小屋での生活に変わる。

今では考えられないかもしれないが、その頃の犬は、小型犬以外は犬小屋での飼育が当たり前だったのだ。

同時に義父は、オスの犬を寄せ付けない為に、犬小屋を厳重に囲った。そうしてカイちゃんは、賢い深窓の令嬢として気高く成長していく。


彼女を予防接種に連れて行った時、集まった犬達は吠えて威嚇し合っていた。カイちゃんも威嚇されたが、

「知らなーい。」

とばかりにツンと顔を逸らし、一切吠えることは無かった。

夫の友達が家に来た時も、初対面から瞬時に相手のキャラを察し

「貴方か。ふーん。」

という態度。とにかく何にも動じない犬なのだ。


そんな気高くしらっとしたカイちゃんには、家族が大好きな可愛い所もある。

特に兄である夫と仲が良く、餌を食べている時でもいつでも、夫が近寄ることは許した。たとえ義父や義母でも、食事中は近寄ると威嚇したというのに。

夫も、歴代の飼い犬の中でカイちゃんのことを特に可愛がった。理由を尋ねても首をひねるばかりで、明確な答は聞けなかった。「相性が良い」とか「波長が合う」ということだろう。

夫が登校する際、カイちゃんが庭で見送るのだが、その姿が健気で愛おしく、

「カイが可哀想だから。」

と言って通学路を引き返し、休んでしまうことが何度かあったそうだ。

散歩の時、いつも夫とカイちゃんはダッシュをした。いくら夫が母親譲りの俊足の持ち主でも、犬にはほとんど勝てない。だが、勝ちを譲ってくれたのか、夫の作戦勝ちか、勝てることもある。

そんな時のカイちゃんは、どことなく機嫌が悪かった。その話を聞いた私は、彼女に優しく、気高く、負けず嫌いなイメージを持っている。


彼女はもちろん、義父と義母も大好きだった。義両親が「犬を飼う」ことを理解している人だというのもあって、2人の言うこともよく聞いたという。

特に義母と散歩をする時は、お尻をよくつついた。

カイちゃんは、義母ともよく散歩をしていた。夫が3歳の頃に脳腫瘍で倒れた義母は、病から生還して社会復帰まで果たしていたが、注意してその後の日常生活を送っていた。

特に、脳が激しく揺れるようなことがあってはとても危険だ。


家に来て6年ほど経ったある日、カイちゃんは義母と2人だけで散歩に出掛けた。もうすぐ家に着くという時に、義母は突然体調が悪くなり転倒。意識はあるものの、そのまま動けなくなってしまった。

カイちゃんは家に走った。彼女も、育ての母が体に不安を抱えて生活していること、今が危険な状態であること、早く助けを呼ばないと車に轢かれる危険があることを解っている。


家の縁側に着いたカイちゃんは、夫と義父を呼んで激しく吠えた。

理由無く吠えない彼女をよく知る夫は、すぐに家を飛び出す。

「何があった?!」

そのまま走り出したカイちゃんに続いた夫は、倒れている義母を発見。

「母さんどうした!え、転んだ?今、父さんを呼んでくるから。カイ、ここで母さんを守っとけよ!」

と言ってすぐにまた走り出す。

義父を連れた夫が戻ってくるまで、カイちゃんは義母を車から守るように立っていたという。


幸い、車に傷つけられたりなどは無く、義母はその後回復した。

義母が転倒してから助け終わるまで、誰も犬用リードを持っていない。だがカイちゃんは逃げ出すことも遊ぶこともなく、家族の傍で邪魔にならないように寄り添っていた。

「カイ。よく呼びに来てくれたな。ありがとう。」

深くお礼を言った義父と夫は、改めてカイちゃんをこの家にとって特別な犬だと感じた。


 それからも、彼女はずっと家族に愛されていた。

夫が仕事の忙しさで構えない時期もあったし、義母が家で寝たきりになったが、義父が毎日欠かさず散歩に連れて行っていたのだ。

それでも犬の年月は、人より何倍も早く過ぎてしまう。紀州犬の平均寿命は12年から15年と言われる。

13歳のカイちゃんの体にも、老いは訪れていた。

ダッシュではいつも夫を負かしていたのに、散歩の途中でよくバタリと倒れる。

寝たきりになった大好きな義母のそばにも、なかなか寄っていくことが出来ないほど弱った。

動物好きでそれまで2匹の犬を見送っていた夫達は、覚悟を決め始めていただろう。実際、何度か命の危機があったそうだ。

そんな頃、寝たきりの義母の体調が悪化する。

ある日の夕方、危篤を脱した義母の入院先から帰る義父は嫌な予感がすると言い、夫と家路を急いだ。

カイちゃんは犬小屋で動かなくなっており、その体はまだ柔らかかった。

「間に合わなかったんだ…。」

「あと少し早く帰ってやっていれば…。可哀想なことをした。可哀想なことをしたよぉ。」

夫と義父は、その時のことを私に話してくれた。

行儀よく前足を揃えて口をしっかり閉じ、気高いカイちゃんらしい綺麗な顔をしていたと。

夫は、ずっと苦しんでいた妹の穏やかな死に顔に

「苦しかったけど、楽になったんだなぁ。」

と泣くことはなかった。しかし、義父はひとりで逝った彼女を想ってずっと泣いていたという。

カイちゃんは、残った命を振り絞って、大好きな義母を助けたのだろうか。

その亡骸は不思議なほどよく燃え、力強い火が上がったそうだ。そして、義叔父の家の庭に埋葬された。


 「俺は、もう犬は飼わない。」

まだ私達が交際していた頃、初めてカイちゃんの話を聞いた時に夫は言った。カイ以上の犬には出会えないと。

カイちゃんは愛犬で、夫の妹で、家族の恩人。替わる者など居ないだろう。

実は夫は犬派ではなく猫派で、猫モチーフのグッズを見れば買うし、娘達には事あるごとに

「猫、飼おうね。」

と言っている。本物の猫が怖い二女が拒否するので当分猫は飼えないかもしれない。

いつか飼えたら、夫は猫を溺愛するだろう。それでも、カイちゃんがいつまでも特別な存在であるのは変わらないはずだ。


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茶山茶々子
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