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街にうごめく影 1

 誠と華と俊介と


 これは、2011年4月、誠が中学に入学した頃のお話し。
 
 誠は、悩んでいた。
 通っているスイミングスクールのことだ。
 小学校に入学と同時に通い始め今もずっと通っている。
 スクールでの「選手コース」の活動で、学校の部活は免除してもらっているくらい打ち込んでいると、周りからは見られているのだが。
 思い返すと通い始めたあの頃が一番楽しかった。
 水に浮く感覚と水中を進む心地よさが誠を虜にしていた。
 そして鯨だ。
 ある時映像で目にした鯨の、しなやかに水中を進むその姿に惹かれた。
 踊るように泳いでいる。鳴き声が歌っているかのようだった。
 それはとても楽しそうだったのだ。
 誠はそれを飽きもせずいつまでも眺めていた。
 幼稚園の頃から鯨が好きだったと母はいうが、記憶になかった。

 その幼稚園時代、小学校に上がる前に、誠は母と訪れた母の郷里の南の島で大怪我を負い、長い入院生活を強いられた。
 怪我をした事の顛末はまったく覚えていないが、入院中ずっと同じ夢ばかり見ていた。
 鯨と一緒に泳ぐ夢だ。
 銀色に光る大きな鯨のその脇を誠が一緒に泳いでいる夢だった。
 夢を見るたび幸せな気持ちになった。
 長い入院生活に耐えられたのはあの夢のおかげだった。
 でも、もうあの鯨はまったく夢に現れなくなっていた。
 大事な物を失くしてしまったような喪失感におそわれていた。
 思い返すとそれは「選手コース」になってからのようだ。
 
 大怪我の回復後、リハビリのつもりでスクールに通い始めたのだが、元々筋はよく飲み込みが早いといわれていた。
 それから四年後の去年、コーチから「選手コース」を勧められた。
 初め誠にその気はなかった。
 気が変わったのは「一般コース」よりプールを使える時間が格段に長くなると聞いたからだ。
 でもいざ水泳選手を目指すことになると、求められるのはより効率的により速く泳ぐにはどうするのか、どうすれば記録が伸びるのか。
 それだけだった。
 目の前にあるのは体幹の強化に、増える筋トレメニュー、フォームの改善等々だった。
 のびのび手足を伸ばしてゆったり泳いでいる場合ではなかった。
―――あんなに楽しかったのになんだろうこれは。
 そうして誠は気付いた。
 心から求めていたのは、水と一体になる心地よさだったのだ。
 記録は伸び悩んでいる。日に日にスクールに通うことが億劫になってきていた。
 
 
 教室に残っている者たちのおしゃべりをぼんやり聞いていたら、いつの間にか下校時間になっていた。
 だらだらと玄関に向かう誠の背後に勢いよくぶつかって来た者がいた。
「いっ、たあ、」
「ごめんごめん、急いでんの。ほんとごめんね。
 あっ、あんた、木下誠。なにサボってんのよ、
 今日は、・・の整理、するっていった、じゃない、・・もう・・」
 風のように駆けていった。平田華だ。
「あっ!いっけね、」
 おしまいまで聞き取れなかったが、すっかり頭から抜けていた。
 誠も同じ図書委員だったのだ。
―――今日は図書室の作業があるっていってたな。にしてもなんだあいつ、何そんなに焦ってんだ。平田のやつ。
  
 そう平田華は急いでいた。
 今日は母の代わりに年の離れた弟の康太を保育所まで迎えに行かなくてはならない。
 母の働いているスーパーのパート仲間が、二日前から休んでいて残業になるからと朝、頼まれたのだ。
 なのに図書室の整理に思いのほか時間を取られてしまい、気付けばもうお迎えの時間になっていた。
「あいつのせいだ」明日文句のひとつもいってやらなくては。
 図書委員の仕事は地味だけど好きだった。
 小さい頃からの本好きで今も寝る間を惜しんで読みふける毎日だ。
 エンタメ、ラブコメ、サスペンス等々、ジャンルを問わずタイトルを見て面白そうだと思ったものについ手が伸びていた。
 中学の委員会活動は小学校でもそうだったように、図書委員以外考えられなかった。
 華にはもうひとり、二つ下の妹がいる。 
 妹の舞は躰が弱くてしょっちゅう熱を出す。二日前もそうだった。
 今朝は何とか元気に学校へ行ったが気になるところだ。
 妹や弟たちの面倒を見るのも嫌ではなかった。
 母は近所のスーパーのお惣菜コーナーでずっと働いている。
 父は隣町の金属加工会社の営業で、関連の地方へ出張が多い。
 忙しい母や父に代わり華が妹たちの面倒を見ている。頼りにされるというのはなかなかいいものだと思っていた。
 
 幹線道路に出て右に曲がると見覚えのある後ろ姿があった。
 目を伏せ俯き加減に歩いている暗い後ろ姿。
―――あれっ?あれって、高畑俊介?お昼前に早退したんじゃなかった?
 無口で必要なこと以外誰とも言葉を交わさない。いつもひとりでいる俊介だった。今もそうだ。
 極度の人見知り?いや人嫌いなのかもと教室のあちこちで囁かれていた。
 あいつは訳アリだから、という先生たちの話しを華は小耳に挟んでいた。
―――訳アリってなに?まあ、わたしには関係ないしそもそも興味ない。
それどころじゃないのよわたし。
 
 華は俊介の真の暗さに気付いていた。
 眼に覇気がない。瞳の奥に氷のような冷たい何かがある。
 変な薄気味悪さを感じていた。
 その俊介の名前が、図書室の返却期限を過ぎたリストにあった。
「同じクラスだったよね、この子。
 期限過ぎてるって伝えといてくれる」
 さっき司書の大崎に頼まれたのだ。
 立ち止まったが相変わらずの暗い雰囲気に声をかけそびれた。
 それに今は急ぐのだ。
 華は自転車をまたさらに勢いよく漕ぎ出した。
 
 そう俊介は、早退したのに学校へ向かっていた。
 人影がまばらになる頃を見計らって。
―――あれは見間違いじゃない。そう絶対、見間違いや気のせいじゃない。
 気になって家で横になっていられなかった。
 確かめなくてはならないと思ったのだ。

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