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闇にうごめく影 3

  タクシーを降りて門をくぐったあたりからすでに異変を感じていた。玄関まで続く敷石の真ん中あたりで足を止める。耳障りな低い唸り声うなりごえ
――――どこからだろう。
 不快なその声に耳をそばだて、屋敷の北側からだ、と思ったその時、
「どちら様で?」あい色の袢纏はんてんを羽織った老人が庭木の影から現れた。腰には庭師仕様のベルトが巻かれている。脚立を担いでいた。
周莉莉シュウ リーリーと申します。
 加賀見梅子さまにお招きいただき、参上いたしました」
 中華系の名の女性は、流ちょうな日本語でそう名乗った。
 
 この一時間前加賀見家では、梅子の救急搬送があり、病院へ向かう者、関係各所へ連絡する者などで騒然としていた。
 梅子の容態は高齢ということもあり、屋敷の内外を不安な空気で満たしていたのだが、それでも何とか皆が平常通りの落ち着きを取り戻そうとしていたところだった。 
「折角のお越しじゃが、あんた、その梅子さまのこと、知らんのかね」
 呆れた顔の老人だったが、
「周さん、いらっしゃいませ。こちらへ」
 足早に出迎えに来た者があった。梅子の執事武智たけちだった。
それだけ言うと庭を横切るように歩き出す。
 まだ残暑の厳しいこの時期に、汗もなくブラックスーツとネクタイをきっちり身に着けている初老の執事だった。
 周莉莉シュウ リーリーと名乗った女性は、袢纏はんてんの老人に軽く会釈をして武智に続く。
 武智の仕草はこの客を他の者には会わせたくないような素振りにも見え、老人は眉をひそめた。妙な気がした。
――――おかしな客には見えんかったが、武智さんらしくないな。まあ非常時だし仕方ないか。それにしてもなんとまあ、恐ろしいくらいの別嬪べっぴんさんやったな。

 今年七十歳になる武智は親の代からの使用人で、自身も四十年あまり梅子に仕えていた。
 加賀見家には家族の他に家事全般を担う者が二人ほどいたが、武智は、家内の雑事、資産管理の一切を取り仕切り、謹厳実直な働きぶりで梅子は元より、家族や親せき、その他関係各所からの信頼を得ていた。
 この家になくてはならない存在であり、梅子の精神的支柱でもあった。それは梅子が武智以外の者を信用していないということでもあった。
 
「お久しぶりでございます、武智さま。
 ご連絡いただきありがとうございます。それで、梅子さまのご容態は?」
「ええそれが、病院へ、梅子さまのご親族も向かわれましたが、まだ何の連絡もありません。ですが、今回の件は、予定通りわたくしが梅子さまに代わり対応させていただきますので、どうぞ、よろしくお願いいたします」
「分かりました。早急に解決いたしますよう、力を尽くします」
「こちらへ、どうぞ」
 武智は離れの戸を開けた。
 離れとはいっても客間、寝室、居間用の和室と三部屋からなっていて、梅子の隠居所といったところだった。
「二十年ぶりですね。こちらに寄せていただくのも。
 梅子さまに、お会いできるのを、楽しみにしておりましたのに」
「それで、先日のお話しですが。
 あれが、この家にわざわいをもたらす、ということでしたが、
 もしや主人の今回の病も、あれのせい、なのでしょうか?
 そんなことが、今の世に、起こるもの、なのでしょうか」
 武智は困惑と疑いの目を向けた。
 周莉莉は険しいまなざしになった。
「十中八九間違いないかと。
 このままにしておいたら、このお宅にますます異変が、あらたな犠牲者が出ないとも限りません。あれが、元凶といえます。
 それで早速ですが、その現物はどこに」
「それが、実は、梅子さまが昨夜、奥の和室の床の間とこのまに・・・」
「えっ、まさかあれを、また取り出してしまったのですか。
 くれぐれもそのまま保管なさってくださいと、お願いいたしましたのに」
「梅子さまは、目録と突き合わせをされる時、一度あれをご覧になっているのですが、何か心惹かれるものがおありのようで。
 あなたに託す前にもう一度見たいとおっしゃって・・・」
 周莉莉は苦し気な表情になり、それが原因ね、と小さく呟いた。
「それでは早く、和室へ参りましょう」

 客間の奥の和室へと入っていく。
 この屋敷この離れを訪れるのは三度目だった。ここの造作はよくわかっていた。二日前、梅子と電話でやり取りした時、今回の件に関しては全面的に任せると依頼された。
「何があっても、私が全力で解決いたします」
 そう言って電話を切ったのだ。緊張が走る。
「武智さま、後は私にどうぞお任せください。
 何が起こるのか私にも分かりません。
 どうぞ、ここへは私が出てくるまでどなたもお越しくださいませんよう」
 武智の返事を待たず凛とした背中を向けて周莉莉は襖を閉じた。
 それがその後の騒動に繋がるとはこの時誰にも予測できないことだった。

 まだ陽は高いというのに和室は暗かった。灯りは間接照明がひとつだけ。
 その薄明りの中ぼんやりと床の間に架けられているものが浮かびあがる。
 何の変哲もない水墨画だった。手前の台座に青磁の香炉がおさまっている。明かりに反射するその淡い色味は、高貴なものを感じさせていた。
 庭で聞いた唸り声うなりごえは今はない。てっきり自分を拒絶する何者かの意思表示だと思ったのだが。
 畳の上に無造作に置かれた箱を丁寧に検分するが、文字はにじんで判別できない。ふたは封印の後があったがそれも朽ちて微かに欠片かけらがこびりついているだけ。
 水墨画をつぶさに観ていく。岩肌が鋭角に迫って来る山々を登る細い道が描かれていた。手前から奥に階段状に登る山道に小さな人影がひとつある。描かれた時代は唐代、7、8世紀ではないかと思われた。
 矯めつ眇めつためつすがめつを眺め、次に香炉を手に取るが何も変わったところはなかった。

 
 異変は夜になって起きた。
 突然襖が開き、誰かが侵入してきたのだ。驚いて振り向いた周莉莉はそこに小さな女の子を見た。パジャマ姿の女の子だ。ふらふら近づいてくる。
 瞳は閉じたまま。夢遊病者のよう。いや、何かに憑りつかれてトランス状態にも見える。
 周莉莉は状況を見守ることにした。なにが始まるのか見定めることが肝心だ。
 その時、香炉から微かに細く白い煙が立ちのぼってきた。どこからか声もする。そして、鼻を突く異臭が。
 腐った何かを焼いているようなひどい悪臭だった。後ろに下がり鼻と口をハンカチで押さえるが、それで防げるものではなかった。
 次にカタカタと音がする。画が、風もないのに揺れていた。
 画の中の風景が、今、霧におおわれていく。
 女の子が床の間の前にぺたりと坐り込んで、水墨画を仰ぎ見るように顔を上げた。白目をむいているが笑っている。
 周莉莉は背中に冷たいものを感じたが、思い切って女の子の肩に手を置き声を掛けた。
「あなたは、だあれ?ここへ、なにしにきたの?」
「ふふっ、ふふふっ」「あっ」
 一瞬のことだった。
 画の中の霧が部屋に流れ出したと思った次の瞬間、また元の画に吸い込まれ、と同時に少女も画の中に吸い込まれていった。
「マオ、追って」「承知」
 声と共に周莉莉は上着のポケットから何かを放った。それが画に飛び込んでいく。すぐに少女が画の中から投げ出されるようにして転がり落ちてきた。
「しっかりして、あなた、大丈夫?」少女に駆け寄り抱えるが動かない。息はあるが意識がなかった。
 しばらくして今度は、黒い襤褸切れぼろきれのようなものが吐き出された。
「マオ!」血濡れて身動きしない猫だった。
 どちらも瀕死のようだ。だが、それで終わりではなかった。
 また霧が湧いてくる。霧が部屋へ流れ出し、充満し、覆いつくしていく。周莉莉は身構えたが、少女を抱えたまま成すすべもなかった。

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