『鬼の夜ばなし3 牛若丸 鬼から「虎の巻」を手に入れる。』
鞍馬の山に幼い頃より天狗に鍛えられし者あり。名を牛若丸という。
ある日天狗の頭、大天狗に
「もうわしからお前に授けるものは何もない」
と告げられた牛若だったが、
「いえわたしはまだまだ未熟もの どうか今後も御指南を賜りたく。
こんなありさまでは なにも成し遂げられません」
―――出会った頃は貧弱な小童《こわっぱ》であったがいつの頃からか、わしに一歩も引かぬ術を会得した。ここまでになるとは思いもよらぬことであった。残るはあれのみ。
大天狗は感慨深げな眼を向ける。
「牛若よ あとは《《兵法の極意》》『虎の巻』を手に入れるのみ」
「兵法の極意『虎の巻』 でございますか そんなものがこの世にあるのでございますか」
「あったのじゃ。しかもこの山に。
しかし ある日こつぜんと消え失せた」
大天狗は重ねて、
「それを手に入れるには 冥界のそなたの父上を訪ねるしかない。
あのお方こそがその在処《ありか》をご存知だ。
ただし よいか それはたやすいことではない」
「わかりました。参ります。
なにがあってもその『虎の巻』とやらを手に入れてみせましょう」
早速、牛若は冥界へ通じるという氷川の奥へ向かった。
だがいったい広大な冥界のどこに父がいるというのか。
それにまだ乳飲み子だった頃に死別した父だ。果たして父と分かるのか。
一抹の不安はぬぐえない牛若だったが、兵法の極意という『虎の巻』への好奇心は高まるばかりだった。
習得した技、術はこの死者の世界では役に立たない。そこはあまりに広大深淵、うかうかしていると有象無象の怪しげなものに取り込まれてしまう。今まで以上に精神修養が必要とされる世界だ。牛若はそこで大天狗の意図を悟った。人智を超えた先にあるもの、それが兵法の極意への入口といえるのだろう。
人の欲という欲を見せられる幻惑魅惑の世界、あるいは生まれたての赤子に戻った己の心もとない姿を見せられる。また何層にも折りたたまれたこの世ならぬ世界を潜り抜け、ようやくたどり着いたのは「九品の浄土」だった。
突然、牛若の前に神々しい光が現れた。
一瞬身構えたが、それは如来に生まれ変わった父だった。
不思議なことに言葉も交わさずみつめあうだけでそれが分かった。
苦労してやって来た息子に父は慈愛の眼を向けていた。
――――牛若よ よう来た。よう来たのう。して ここを訪ねてきたのは なにゆえだ。
「鞍馬の大天狗より聞き及びました”兵法の極意”『虎の巻』を お授けいただきたく」
――――うむそうか はるばる来てくれたのは嬉しいが ここにそれはない。
父は意識の中に直接語りかけていた。
――――はるか昔、兵法書『六韜《りくとう》』が、周の太公望によって作られた。
『文、武、龍、虎、豹、犬』の六巻からなるそれは 中でも『虎の巻』が秘法中の秘法 兵法の極意といわれておる。
その『虎の巻』の書写を吉備真備が唐より持ち帰り この秘法にふさわしい者が現れるまで鞍馬の寺に厳重に納めたのだ。
しかしどういう術を用いたのか今 鬼一法眼という怪しげな輩の手に渡っておる。だが『虎の巻』はそれ自身が相応しい者を選ぶといわれておる。
真に相応しいとなった者は 完全無欠の覇者となるのだが 手に入れるだけでは何の用もなさぬ。さてその鬼一法眼なるものはどうであろうかの。
お前はどうじゃ。その『虎の巻』に相対する覚悟はあるのか。
そこでふっと父の姿は掻き消えた。
「相対する覚悟はあるか」牛若は父の言葉を噛みしめていた。
その後、急ぎ戻った牛若は大天狗に事の顛末を報告する。
「なんと あの外道 鬼一法眼の手に渡っておったというのか」
『虎の巻』が失われてから手を尽くして探したが、大天狗にさえ行方が分からなかったのだ。巧妙狡猾の鬼一法眼に翻弄されたということだったのだ。
名前に鬼の字を用いているが奴は正真正銘人だった。
一条戻り橋の袂に巣食う陰陽師くずれ。怪しげな加持祈祷を行う際、鬼の式神を操るのだという噂だった。
『虎の巻』を奪還すること、それに相応しい者は自分であると証明することを大天狗は牛若に命じた。
牛若は奮い立ち、配下の者が探り出した鬼一法眼の屋敷に向かうのだった。
牛若は屋敷内から現れた人影の前にやおら倒れ込んだ。
病人を装い屋敷に侵入しようとしたのだ。現れたのは鬼一法眼の娘だった。娘は牛若をたいそう気の毒がり手厚く世話を焼いた。
四、五日病人のふりをして、牛若は屋敷内を探ったが、なかなかみつけられなかった。とうとうある日、
「迷惑であっただろうに この四五日たいそう世話になった。
あなたの父上にお礼を それにここまで真心こめて世話をしてくれたあなたを 是非嫁に貰いたい。
どうか お父上に 会わせてくれまいか」と娘に頼んだ。
娘も見眼麗しい牛若に恋心を抱いていたところだった。
病も癒えたようだからそのお祝いもと、娘は宴を用意することにした。
そうして宴の夜、父である鬼一法眼に牛若は娘との婚姻を願い出た。鬼一法眼はたいそう喜び、祝いの酒宴は三日三晩続いた。
三日目の夜のこと。
「そういえば 鬼一法眼さま あなたは何か特別なお宝をお持ちだそうですね。なんでも鞍馬の天狗たちが喉から手が出るほど欲しがるというお宝だそうで」
婚礼の日取りも決まり祝いの酒にいい気分の鬼一法眼だった。
「おう あの鞍馬の間抜けな天狗どもの隙をついて奪ってやったあれか。
偉そうなあの大天狗にひと泡くわせてやったわ。
まあ 何にしてもわしの呪術にかなうものはいないということだ。
うははははー」つい口を滑らせた。
「してそれはいずこに」牛若の眼が光る。
「ほれ あそこ あの壺のなかじゃ 覗いてみるがよい」
床の間の大壺だった。
「ほう ここにでございましたか 手に取ってみても よろしゅうございまするか 父上さま」
「念入りに呪をかけておるが 特別に見せてやろう もうすぐ婿になるのだからな
しかしそれは ちと扱いに難儀するしろものじゃが まあ よいか」
そういいながら鬼一法眼は、「ふっ」と壺に強く息を吹きかけた。二度三度と息を吹きかけ、力尽き、後は高いびきで眠ってしまった。
深夜牛若は宴の終わった屋敷を後にした。
翌日『虎の巻』が失せ、騙されたことを悟った鬼一法眼と娘は、憤怒にかられた。この親子、人であったのだがみるみるうちに鬼となる。その実はやはり鬼だったということだ。正体を現したのだ。
手下とともに鞍馬の山へ攻め上ったが、待ち受けていた牛若と天狗らにあっけなく討ち取られてしまった。
『虎の巻』を手にした牛若は、触れた時から力がみなぎるのを感じていた。
これは他の者が手を触れようものなら、何らかの危害を被る代物だった。火傷ぐらいですめばよし。人によっては手に取ることもかなわず吹き飛ばされてしまうものだった。
盗んだ鬼一法眼でさえ呪いを何重にもかけた壺でなければ、手元に置いてはおけなかったのだ。
「やはりこれはそなたが持つべきものであったのだ」
大天狗は驚嘆する。
これによりその後「義経」と名乗り、神がかりのような戦術で連戦連勝する姿を多くの者に見せたのはいうまでもない。
また牛若は兄との確執に非業の死を遂げたといわれたが、鞍馬の大天狗の暗躍とその手に光り輝く巻物により密かに逃げ延びたとも伝わっている。
宝はそれに相応しい者が持ってこそというお話し。これにておしまい。
参考 『御伽草子』『義経記』、小松和彦著『鬼と日本人』
・原文に作者の勝手な解釈を大きく挿入いたしました。悪しからず。
また、小松氏によると浅草寺医王院の蔵書に『白川鬼一法眼所持 兵法虎巻』が、また鞍馬寺にも『虎の巻』が現存するということです。内容はどちらも同じ。鞍馬寺の写本が浅草寺に納められているものではないかということでした。
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