街にうごめく影 11
金木犀の木の下で
華の父は、出張を切り上げていつもより早く帰って来た。隣家の事件をニュースで見てあわてて帰ってきたのだ。
華の様子を聞くとすぐ部屋に上がって来た。
「華、どう調子は。聡子さんのことはショックだったね。お前、仲良くしてたもんな。今は兎に角、ゆっくりお休み」
それだけいうと父は静かに階下へ降りて行った。
華はずっと涙が止まらなかった。
誰に話しかけられても返事もできなかった。
「今日の午後、凄惨な事件が起きました」
周辺の家々のテレビ画面には、娘の長期にわたる引きこもりを悲観して父親が一家心中を図り三人が死亡。また現場では直後に火災が起き、原因は調査中。と事件の概要が流れていた。
聡子の家族は聡子が産まれてすぐここへ越してきた。
華の母は、以前それを聞かされていたが、隣家の前の持ち主も娘と三人家族で、新築だったにも関わらず突然この家を売りに出し引っ越していった。その家族はその後、どうやら行方が分からなくなったようだ。どうもあそこは何かあると近所で噂になっていると母はいう。
父を相手に聞こえてくる母の声が、ますます華を嫌な気分にさせていた。
聡子とはこの2、3年、お互いの家を行き来することは無くなっていたが、顔を合わせるとちょっとした立ち話はしていた。
だが、聡子の転校の少し前から徐々に表情が険しくなっていたことに華は気付いていた。そして今年、華が入学してからは、もうめったに顔を合わせることはなかった。思い出すのは聡子の笑顔ばかりだ。
隣家は片側が焼け焦げ、ブルーシートに覆われている。焦げくさい匂いがいつまでも漂っているが、聡子の母が丹精していた庭は、また綺麗な花を咲かせていた。表で親戚の者なのか取り壊す話しもしていたという。窓から見えるのは、やり切れなさに誰もがこの家の前を足早に通り過ぎていく姿だけだった。
華は事件の翌日から学校を休んでいた。5日ほどになる。
代わる代わる仲のいい子たちが授業のノートや課題のプリントを持って来てくれるのだが、誰にも顔を見せなかった。
「ごめんね。せっかく来てくれたのに、華、まだ調子悪くて起きられないの」母は何度も頭を下げた。
華はずっとあの夜の情景が繰り返し現れる悪夢に悩まされていたのだ。ところがこの頃様子が変わってきた。
夢の中の聡子が、華に何かを訴えるのだ。
「・・・おね、が、い。ハナ、ちゃん・・・」
必死に何かを言い募るのだが、何を言っているのかまったく分らない。
「サトちゃん、なに?なんだって?」
「・・・おね、が、い。ハナ、ちゃん、おねがい」
問いかけには応えず、ひたすら訴えるばかりの聡子だった。
眠れぬ夜が続き食欲もなく、華は起き上がると始終眩暈がしていた。
そして七日目の夜のこと。
うつらうつらしていた華は、はっと目が覚めふいに起き上がった。
誰かに揺り動かされたような気がしたのだ。
街灯の明かりがカーテンの隙間から射しこんでいた。
ふらつきながら窓辺に立つと、歩道の角に人影が見えた。「あ、れっ?」
明かりの中に浮かんだその人影は、俊介だった。隣家を凝視している。
深夜にも関わらず、しかも事件のあった家の前で何をしているのか。
華はためらうこともなくそっと部屋を抜け出した。
何かに導かれるように身体が勝手に動いていた。
「ねえ、何、してんのこんな時間に、」
華の声に振り返った俊介は、驚きもせずこういった。
「ここに、呼ばれたんだ」
俊介も寝ているところを誰かに起こされたのだ。そして外へ出た途端、白い靄に誘われ、たどり着いたのがここだったのだ。三本線の黒のジャージに白Tシャツの俊介と、モコモコスエットの華だが、こんな時間だからパジャマのような恰好は仕方なく。とはいえふたりは気にすることもなかった。
「きみも、だろ?」「え、私も?」
――――そうか、呼ばれたのか。でも、誰に?
いや、誰なのか、分かってる。
辺りには、霧が立ち込めていた。
いつの間にか目の前は、いつもの街並みとは違う景色になっていた。
真夜中とはいえ一切の物音はなく、辺り一面白一色。見えているのはこの事件のあった家。聡子の家だけ。
そこには、空間が捻じれたような奇妙な風の流れもあった。
まるで夢の中の情景だ。熱に浮かされて立ち現れた、幻覚のような世界を思わせた。
「来てくれたんだね よかった。こっち こっちだよ」
消火活動で一部が無残に打ち壊された生垣のむこうから声がした。
少年が手招きする。青いシャツに黒い短パンの華奢な少年だった。
ギリシャ彫刻のような、見惚れるくらい美しい顔立ちの少年だ。
「啓介。やっぱりお前だったのか。なあ、いつかの、”あの子”って・・」
華は、この顔どこかで見た。どこだったっけと思い巡らし、「あっ」口をついて出てきたのは「ケ、イ、ちゃん?」
俊介はそこで驚いた。
「君にも啓介が見えるの?いや、啓介を知ってるの?」
「あの子が、あんたの弟、だったの?」
声がふたつ重なっていた。
「さあ こっちへ はやく」啓介がふたりを急かす。
恐る恐る生垣を潜り庭へ入って行くとその先、金木犀の木の下にもうひとつ人影があった。
はじかれたように華は走り寄る。「サ、ト、ちゃん」
涙がまた頬を零れ落ちていく。
聡子の姿は元気なときのままだった。
地元中学へ転校してきた頃の休日のあの日、庭にいた聡子と顔を合わせた華は、久しぶりに他愛の無い話しであっけらかんと笑い合っていた。
聡子はお気に入りの薄桃色のカーディガンを羽織っていた。
「サトちゃんそれ、すっごく可愛いね」
「でしょ。これ、ママにおねだりしたんだ」
あのときの聡子が、ここにいる。
ああでももうすでにあの頃、聡子の俯いた横顔に、ふと翳りを感じたのだ。
今更ながら華は、気付かないふりをした自分を悔いた。
華の心の内を聡子は察したのか、
「ハナちゃん。いいのよ。そんなこと気にしなくて。
ずっと心配してくれて、ありがとね」
聡子は目を伏せる華に手を伸ばして、諦めた。
華も思わず手を取ろうとしたが聡子の体をすり抜けて行く。
手を取り合うことも肩を抱き合うことも叶わない。そこには生者と死者の厳然とした理《ことわり》があった。
見た目には歳の離れた兄弟たちはしばらくそれを見守っていた。
そうして先に口を開いたのは兄だった。
「それで、啓介はどうしてここに?」
「それは・・・」
「それは、私からお話しします」
「それは、私の夢に出て来たことに関係してる?」
「ええ、そう、そうなの、実は、お願いがあって・・・」
聡子の話しが始まる。
「この木の下でうんと昔、私、綺麗な青い陶器の欠片をみつけたの」
月のない静かな夜、街の片隅で、時空の捻じれた置き去りにされたような空間に、四つの影が向き合っていた。
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