銀の鯨 第三話
少年
通夜の時刻に雨が降り出した。
フロアーとロビーの仕切りが開け放たれているため、玄関の自動ドアが開く度に湿った空気が漂ってくる。
訪れる者がここからよく見える。
祭壇側に祖母、叔父、母が並びその横に誠も控えていた。受付に叔父の連れ合いと娘がいた。華奢で神経質そうなよく似た母娘だった。
その弔問客の数が半端ない。
これが全て親戚なはずはないと分かっているが、祖父はいったい何をしていた人なんだろうと思ってしまう。それともこれがこの島の風習なのだろうか。
人々が濃い空気をまとって静かに列をなしている。
「真由美だ、えっと・・」「真由美、お父さん、大変だったね、あっ、」「久しぶりの再会がこれだなんて、残念だ。あれっ、もしかして、」
母の幼馴染や同級生たちなのだろう。声をかけてくる者たちが隣の誠に気付き一瞬口ごもる。
「息子さん、だね、」「そうか元気そうでなによりじゃないか」
そう言いながらそそくさと離れていく。
二十年ぶりなのだ。どう対応していいのか困っているようだったが、どうにも気分のいいものではない。
だが、一定の年齢の人々から向けられる奇妙な視線に誠は困惑した。
高齢の祖父祖母と同年齢の男女が少し離れたところからあからさまに誠を見て声を潜めているのだ。潜めてはいるが微かに漏れ聞こえてくる。
「ほら、あの子、あの子だよ・・・」「ああ、そういえば、そうだったね」
不快感と不安感と不信感の極みだ。
気分を変えようと手洗いに立ったのだが、戻る通路の角で耳にした声に驚愕し立ち尽くした。
「ほら神隠しにあった子。あの子だよ、あの誠って子」
「そうそう、20年前の、あのときは大変な騒ぎで」
「そうだった、あれがもとで、このオヤジも」
―――なにを、はなしているのだ。かみ、かくし?僕が?
全く動けなかった。
―――母に。そう母に確かめてみなくては。
意を決して足を踏み出したそのとき、背後から誰かが通り過ぎ、そして、誠の上着の裾を引いた。
「うわっ」
後ろの人影に全く気付かなかった。不意打ちのようにすり抜けたその姿にまた驚く。
小学四、五年生くらいの男の子だ。その身に着けているものが。
白のランニングシャツに紺のショートパンツ、そして足元はビーチサンダルだ。
子どもとはいえ葬儀にこの姿はあまりに非常識すぎる。
だが、誠を仰ぎ見たその満面の笑顔と、「ふふんっ、」という声をどこかで見たような、どこかで聞いたような気がした。
どこだっただろう。さっき会ったのだろうか。いやこんな子どもはいなかった。気付いた者は誰でもまずその服装をきっと叱っていただろう。
会うのは初めてのはずなのに少年は誠を知っているような素振りだった。
見つめる人懐こい瞳といたずらっ子のように笑う口元にどこか懐かしさを感じる。
少年はふわりと身をひるがえし玄関へ向かい、そのまま外へ、雨の暗闇へ駆け出していった。
あの少年は僕が追いかけてくるのを待っている。誠はなぜかそんな気がした。
後を追わなくては。いや連れ戻さなくては。いくら南の島だといっても外は降りしきる夜の雨だ。あんな格好で外へ出れば風邪をひく。
―――ぴちょんっ。
耳元でまた水の音。
深く水をたたえた淵に落ちる、ひそやかな音がした。
―――ぴちょんっ。
誠はまた瞬きを繰り返した。
誠は、傘をさす間もなくあとを追った。
少年はすぐ左に曲がっていった。
降りしきる雨は霧雨になり身体にまとわりついてくる。
すぐに追いつくと思っていたのにもうずい分先にいた。
まばらな街灯が斜めに少年の輪郭を浮かび上がらせている。
やはり誠を待っていた。立ち止まってこちらを見ている。近寄るとまた駆け出す。「ふふふっ、」闇の中から声がする。
「ねえ、ちょっときみ、こんな夜にあぶないよ」声をかけるが、
「ふふふっ、ふふふっ」無邪気な笑い声を上げる。完全に遊ばれている。「くそっ、」大人げない声が辺りにこだまする。早く追いかけて連れ戻さなくては。夜のこの雨は冷える。
「くしゅん、」ほら、くしゃみをしてるじゃないか。
「おおーい、きみ、風邪ひいちゃうだろう。帰ろう」
「ま、こ、と。約束、だっただろう。もういちど、ふたりで行こうって」
「誰、きみ誰だ?」「ぼくだよぼく、ヒデだよ」
ヒデ?ヒデって、誰だ。今さっき会ったばかりじゃないか。
「きみ、誰かと勘違いしてるよ。きみの約束したって人はほかにいる」
「いやだな、わすれちゃったの?」「うわっ、」
まるで瞬間移動のようにすぐ近くに来ていた。
誠の手を取る。「行こうよ」その手がとても冷たい。
ヒデと名乗る少年の瞳から目が離せなくなった。
この瞳はやはりどこかで見た。どこかで。
と、一瞬で辺りの景色が変わった。
誠はほんのりとした明かりの中にいた。
少年と手をつないでいる。少年より低い目の高さになって。
「ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ」
寄せては返す波の音がする。
ゆっくり辺りに目を向けると、そこは夜の海辺、波打ち際だった。
海の向こうに月が、欠けたところのない大きな満月が浮かんでいた。
銀色の道がふたりを導くように海の上に伸びている。
月へと導く道が。
「ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ」
寄せては返す波。
青い夜だった。
ちいさい誠が呟く「きれい、きれい、だね」
少年も頷く「うん、きれい、だね」
潮の香が心地いい。目を閉じて胸いっぱい息を吸ってみた。
「今夜は、あの子もくるよ」「あの子って?」
「もうじきわかるよ」「ふ~ん」
それが誰だか誠はもう知っているような気もした。
目を閉じてもう一度深く息を吸う。
前にもこうして波の音を聞いていた。ずっと前、うんと昔に。
「ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ」
「ま、こ、と~」遠くから呼ぶ声がする。
「まこ、と~、まこと―、誠!」
はっとして振り返ると、そこに悲痛な顔の母が立っていた。
雨の夜の濃厚な闇が戻っていた。
「あんたはもう、《《また》》」
泣きそうな顔だった。誠の腕をつかみ激しく揺さぶる。
「こんなとこでいったい何してんのよ」
「いや、あの子が、外に飛び出して」
見回したが少年の姿はどこにもなかった。
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