闇にうごめく影 4
聡子が、隣で寝ていたはずの娘、さやかがいないことに気付いたのは、夜明け前だった。
トイレにでも行ったのかと見に行くがいない。おかしいなと思いながらも気にすることはなかったのだが、なかなか部屋に戻ってこない。そのうち他の者も起き出す時間になり、顔を合わせた者にさやかを見なかったか聞いてみたが誰も知らないという。
その時になって言いようのない不安に襲われた。そして、もしかしたらあそこかもしれないと思った。
さやかは曾祖母梅子の元に、日頃入り浸っていたのだ。梅子の入院騒ぎで心細くなり、留守中には入ってはいけないと言いつけていたのに、勝手に離れに行ったのではないかとそう思ったのだ。
聡子は慌てた。もしや梅子が大事にしている物でも無造作に取り出していたりして、傷でも付けたら大変なことになる。
「今、ここへ入ってはなりません。
梅子さまに、きつく申し付かっております」
武智は、戸に手をかけた聡子を止めた。
「ご迷惑はおかけしません。さやかが行儀よく、そこにいればいいのです。
なんだか胸騒ぎがして、仕方ありませんの。
では武智さんが確かめてください。それならよろしいでしょう?」
武智は仕方なく戸を開けた。
「さやかさま。さやかさま。いらっしゃいますか。
早朝に申し訳ありません、周さま。こちらに、当家のさやかさまが、お邪魔しておりませんでしょうか」
声を潜めて呼びかけながら廊下を進む。だが、どこからも返事はなく物音もしない。武智は首を傾げた。締め切っていたはずなのにどこからか風を感じる。そして、和室の襖が開け放されていることに気付く。
覗いた武智は、息を呑んだ。
外に面した障子から朝陽が漏れて、中の様子がはっきり見渡せた。
隅の間接照明が倒れている。床の間の掛け軸の水墨画がめくれて傾いている。青磁の香炉からは奇妙な匂いが漂う。
そして床の間の手前。畳の上に血糊のような赤いシミが目に飛び込んできた。「これはいったい・・・」
「周さま、周さま、」
もうその時には声を張り上げ他の部屋を見て回るが、さやかは元より周莉莉の姿もなかった。母聡子の胸騒ぎは的中していた。
警察への通報で捜査が始まった。
捜査員たちは一斉に家の者たちへの聞き取りを始める。
母親の聡子に祖母の良子、その他使用人たちからは特に何の情報も得られなかった。
だが、武智が梅子の指示で昨日「周莉莉」という客を迎え入れたこと、また長年庭木の世話をしている老人からも、訪ねて来た女性の話しが出て一気に事件性が高まった。他に女性を知る者、昨日見かけた者がないことも不審だった。
女性を応対した武智は
「初めて会った人だったが、主人梅子が依頼していた方だったようで、中へ通した。おそらく骨董品の鑑定人だ。主人がどうしても早急に、対応してもらわなくてはならない品があったようだから」
と話していた。女性についての情報はそれ以上得られなかった。
警察はその女性「周莉莉」が、さやかを連れ出した可能性があるとし、誘拐も視野に入れて捜査を進めようとしていた。
だがここに大きな疑問があった。女性の所持品がそのままだったのだ。
スーツの上着、小ぶりなバッグ、履いてきた黒のローヒールだ。
上着のポケットには何も入っていなかった。バッグの中はハンカチ、革のマネークリップに小銭入れのみ。名刺の一枚もなく、今どき誰もが持っているはずの端末機器がない。身元を示すものがなく、周莉莉と名乗る鑑定人らしいが、それを証明するものが何もなかった。
日本人ではないのか、いや、わざと中華系の名を名乗った可能性もある。
不可解なのが失踪時のふたりの、足跡ひとつ髪の毛一本ないことだ。入室した痕跡はあるが、外へ出た形跡がまるでない。
いったいふたりはどこへ消えた。
それに加えて女性が滞在していた部屋の血糊だ。
裏庭に面した障子の一部に、何かが貫通したような破れ穴があり、穴の周辺やその下の地面にも血糊があった。後でそれが人間のものではなかったと判明するが。
鑑定を依頼したという加賀美家の主人梅子の危篤状態は続き、その女性が真実、骨董品の鑑定人だという確認もとれない。
当初すぐに解決に向かうと思われていた事件は、幾つも重なる不可解な現場の状況に長引くことが懸念された。
そうして事件発生から何の進展もなく十日が過ぎようとしていた。
華としおりが助けた猫は九死に一生を得た。
一週間以上は経っていると思われる原因不明の大怪我だった。
傷は深く、もう少し遅ければ命はなかったという。運び込んだ動物病院で緊急手術の後、しばらく入院することになった。
そして三日後、ふたりで様子を見に行くと、「奇跡的、驚異的な回復力です。このまま退院できますよ」と言われ、華は自宅マンションに連れて帰ることにした。
我家には生きもの苦手な者がいて、これまでペットを飼う予定もなく気にすることもなかったが、この時ほど華は、ペットOKのマンションで良かったと思ったことはなかった。
その生きもの苦手の者である誠は、猫を引き取ることに反対したが、回復が早いとはいえまだ足元がおぼつかない。とてもこのまま放り出すわけにはいかないと、妻と娘に説得懇願された。
「保護団体とかあるだろうに」と呟く誠に、強烈な華の非難の目が向けられた。今後の家庭での立ち位置に大きく支障が出るのは間違いない。仕方なく誠は受け入れに同意するが、自分は極力遠くから見守ることにした。
野良猫なのかどこかで飼われていたのかは分からない。分からないが人馴れしているようだ。華たちの話しを聞いて理解しているような素振りをする。
包帯を取り換える華の作業がしやすいよう体の向きを変えてみたり、おっかなびっくりのしおりに進んで頭を触れさせたりする。
「ねえ、なまえ、なにがいいかな」
「そうねえ、ハチ割れだから、ハチ?」あれっ。華は自分で言ったこの言葉をずっと前に聞いた気がした。遠い昔。どこかで。
「ハチ、ハチ、ハチ」
しおりが呼びかけると横目で「にゃあ」と鳴く。自分のことだとわかったようだ。一応返事をしとくかといった風にも聞こえる。
華は、これでまた少ししおりの気持ちが和らぐといいなと思っていた。ちょうど習い事も見学する気になっていたところだった。まだ気持ちは晴れないだろうが、何とか外に目を向けようとしているように見えた。
その夜のことだ。華は夜中妙な声を聞いた。
どこからかボソボソと話し声が聞こえてくる。
だが夢の中の出来事のように思われ、気にせずそのまま眠りに落ちていった。ところがまた次の日も。
夜中、家中が寝静まっているなか、どこからかボソボソ話す声が聞こえてくる。また夢だと思って構わず眠りに落ちそうだったのだが、「ん?」母の勘が働いた。しおりのような気がしたのだ。
いつも六畳の和室に三人で川の字になって寝ている。隣に手を伸ばすと布団が空。やっぱりだ。そこへ誠の盛大な鼾も聞こえきて、華は今度こそ目が覚めた。
そっと起き出し部屋を抜け出す。
まだ話し声は続いている。居間からだった。
「しおり、どうしたの?」
ゆっくりドアを開けると、そこにはしおりだけではなく、布団代わりのクッションに起き上がり、しおりに向き合う包帯姿のハチもいた。
ぺたんとしゃがみ込むしおりと、両手をきちんと揃えて真っ直ぐ背を伸ばすハチが。
「どうしたの、こんな夜中に、ハチの様子、見に来たの?」
ハチが気になって仕方なかったようだ。
「もしかして、しおり、昨日もハチのこと見に来てた?」
「うん。でもきのうは、すぐにおふとんに、はいったよ。
きょうもね、みにきたら、ハチがおはなしがあるっていうの。
あのね、ハチの、お友だちがたいへんなんだって。
たすけにいかなくちゃって、いうの。
でもまだ、けが、なおってないから、わたし、だめだよっていったの。
そしたらハチ、パパのお友だちのしゅんちゃんに、あわせてって、いうんだよ」
「ふ~ん、しゅん、ちゃん?俊介のことかな?」
しおりは俊介のこと知ってたんだろうかと、華はぼんやり考えた。
夢でも見たのだろうと寝室に強引に連れて行くことも出来たのだが、華は面白がって話しを合わせることにした。
そして「にゃあ」と鳴くハチを「そうだって」と、通訳のように伝えるしおりに、夢と現実がごちゃ混ぜなんだなと笑ってしまった。
「分かった分かった。じゃあ明日、パパのお友だちの俊介さんに、電話しとくよ。だからもう寝ようね」と流す華だった。
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