街にうごめく影 13
訪問者
聡子は啓介を見つめた。
「ケイちゃんごめんね。
私のせいで、こんなとこに、縛り付けることになって」
一度目を伏せ、次は俊介にも顔を向けた。
「ケイちゃんのお兄さん、ごめんなさい。どうか、私を許して。
私の、あの願いは、決して口にしてはいけないことだったんだ。
無理やりこの世に呼び戻されてしまったケイちゃんの中には、過去の傷や果たせなかった想いも一緒に呼び覚まされてしまった。そして、人を傷つける怪しいモノになってしまった。ホントは、とっても優しくて、真っ直ぐな男の子だったのに。私のせい。全部私のせい。私にもう少し勇気があったらよかったの」
「ぼくは サトちゃんとまた会えて 嬉しかった。
だから ぼく サトちゃんの 力に なりたかった。
しゅんと いっしょに 学校も 行きたかったんだけどね」
啓介には、自分ではどうしようもないことだらけだったのだ。
死んでいくことも、呼び戻されることも。
俊介は今、弟があまりにも不憫で、涙がこぼれ落ちてきた。
こぼれないように上を向いたのだが、後から後から溢れてくる。
これまで事故で家族を亡くしたことを、俊介は、どこか夢の中の出来事のようにしか思えず、何の感情も湧かなかったのだが、弟の心情を思うとあまりにやるせなかった。
華はふと、小さい頃見かけたあの日のケイちゃんは、あまりにも儚くて夢のようで。この子は昔からもうすでに、この世を超えた存在だったのではないのかと思っていた。
聡子の声がする。
「さあ、もう行かなくちゃ。ケイちゃん一緒に行こうね」
「うん もちろんさ サトちゃんを ひとりで行かせないよ」
「青い蛙の神さまは、今もリビングのテーブルにいるの」
最後に聡子は華に向かってすまなそうにそういうと、啓介の手を取り歩き出した。この世の者ではないふたりは、夜の終わりにひそやかに消え去っていくのだ。聡子の後ろ姿はちいさな女の子になって、啓介とつないだ手を楽し気に振っている。夜の底が開いてくるその前に、西へ向けて子どもたちが進んでいく。子どもたちの足元にはひと筋の光の道があった。
霧が薄れて、金木犀の木の枝はいつの間にか元に戻っていた。
一切の幻が解けて消えようとしている。
夜が明ける。空が朝を連れてくる。
聡子の願いを叶えるために、残されたふたりはこれからしなければならないことに思いを馳せた。託されたものはこの半分崩れている住宅のリビングのテーブルの上だという。
明るくなってしまう前に取り出さなければならない。華は、壁の隙間から無理やり体を滑らせ建物の中へ入った。
ことごとく混乱した部屋の中に、なぜかそこだけライトが当たっているかのように明るい場所があった。
それは本当にテーブルの上に、待っていたように置かれていた。箱を抱えた華と庭でそれを待っていた俊介が歩道へ出ると、足音が聞こえてきた。朝もやの中誰かが駆けてくる。
一瞬身構えたが、現れたのはひとりではなかった。
「なんで誠が、ハチを連れてんだよ」
待ち構える者も、現れた者もどちらも笑っていた。
「ジョギングしようとしたら、ハチに連れてこられたんだ。
いやそれにしたって、ふたりでこんな朝にどうしたんだ」
「長い話しになるよ」「うんと長い話しにね」
「そう、なのか」「にゃあ」
一週間後、土曜日の昼下がり。華は誠の自宅マンションからの帰りだった。
もうおちおち寝てはいられないと思った華は、無理にでも登校を始めていた。情報を集めなくてはならない。三人で手分けして調べ初めたところだった。今日はそれを持ち寄っていたのだ。
誠を巻き込むのは必然だった。実際あの後、二人とも酷い疲労感で何も考えられなかった。何だか誠の顔を見て、俊介も華もホッとしたのだ。
誠は聞かされた華の話しを、初めはなかなか飲み込めなかったが、しかし問題の箱を目の前にすると信じざる負えなかった。大変なことが起こっているのだと確信した。その流れでのハチだ。
あそこを通りかかったのは、「ハチに連れてこられたから」と誠はいう。誠はそれがハチの意志だと信じて疑わない。
来月から隣町のスイミングクラブに参加を決め、朝のジョギングを始めようと思っていたところだった。あの夜は眠れなくて、まだ暗いけど走ってこようと外へ出たときだった。とても偶然とは思えないタイミングでハチは誠の前に現れ、そして、振り返り振り返り誠を見た。付いて来てほしそうな素振りだったのだ。
「これって、絶対、助けてやってってことだよね」
誠はそう信じて疑わない。
ハチワレ猫のハチ。
ふらりと「喫茶 すず」の店の裏に現れ、保護されてもう何年にもなるという。どこかで飼われていたのか、年は幾つなのかまるで分からないと聞いた。普通の猫だった。誠を連れてきたのは、俊介のためなのだろうか。全く懐《なつ》かないと聞いていたのに、そこのところはよく分からない。可愛らしさだけに目を奪われていたけれど、案外頼もしい存在なのかもと思う。
そんなことを考えながら帰ってきたところだった。隣家の前から聞こえてくる話し声に華は思わず立ち止まった。
「あのう、ここのお家は、いったい、どうなったのでしょう?」
「あ、ここ、火事で焼けて取り壊してるんですよ」
「ここに住んでいた方たちは?」
「娘さんとその両親の三人家族だったんですけどね。
三人とも亡くなってしまいました」
「ええっ」「お知り合い、だったんですか?」「ええ、まあ、」
買物帰りの母が、見知らぬ女性と話していた。
どうやら隣を訪ねてきたようだ。
しばらく言葉もなく女性は立ち尽くしていた。
呆然と建物のあった辺りを見つめている。
唇を噛みしめ考えこんでいる。衝撃に耐えているのだろう。
綺麗な人だ。長身で細身の体に長い黒髪は日本人のようだが、言葉のアクセントというかイントネーションに違和感があった。
「あのう、申し訳ないんですが、もう少し、詳しく、事情を、お聞かせください、ませんか」
「え、そうねえ・・」
礼儀正しい物言いだが拒否できない押しの強さがあった。何より気の毒に思ったのだろう。母は帰って来た華を見ながら「じゃあよかったら、うちへ来ませんか?」とそう言った。
ちょうど妹や弟は父が公園に連れ出していたから「ゆっくり三人で午後のお茶でも」と。
女性の名前は「ジェーン・スー」。台湾人だという。
15年前に父親の仕事の都合でこの街に一時期住んでいた。
その頃知り合った娘さんに会いに来たのだというのだ。
隣の家から通っていた中学のクラスメイトだった。
手紙のやり取りをしていたが、父親や自分の仕事の関係で香港やシンガポール、アメリカなどを行き来するうちに途絶えてしまったそうだ。
今回15年ぶりに日本にやって来て訪ねたのだが、こんなことになっているなんてと沈んでいる。
だがこのスーさんの同級生なら同じようにもう成人している。
今回亡くなったのは中学生の娘とその両親だ。訪ねた人ではないことがはっきりしてすぐに彼女はホッとしていた。
帰り際玄関まで見送ったが、華は気になってスーさんの後を追った。
その同級生というのは、聡子たちの前に住んでいた人だろう。
「あの、スーさん。もしかして、その・・・
青い蛙の置物、なんて見たことない、ですよね?」
彼女の顔色が変わった。
そして、華は、「喫茶 すず」にスーさんを案内することになった。
蛙の入った木箱の話しをすると、スーさんは三人に話したいことがあるといったのだ。
ただあの木箱は今俊介の手元にある。華の所には小さい子がいるから、自分が箱を預かるといって俊介が持って行ったのだ。妹や弟が興味本位に手に取ることを心配してくれたのだ。
スーさんは是非それを見たい。見なければならないというのだ。
みんなが揃ったところで華が話しを始めた。
あの事件の顛末。聡子のこと。
話し終わるとスーさんは大きくため息を吐いた。
「私の責任です。私が、すべての、原因を作ったの、です」
悲痛な面持ちでスーさんはみんなをみつめた。
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