愛はお金じゃ買えない。 ノベル作品集        シナリオ&コンテンツ企画専攻3年奥山 結莉乃

「……っ、何でも金で解決しようとすんなよ……っ!」

「カナくんっ!」

 俺には高級すぎる家の白いドアを乱雑に開け、ここは日本か? と疑いたくなるほどの豪邸を飛び出した。



 俺は年齢だけ高校生の叶冬(かなと)。そして俺の足元で呑気に食いモンを食ってるのが野良猫のジジ。

 なぁんて、宅配業を営む魔女風に言ったって、今の状況はなんにも変わらない。

「はぁ……。どうすっかな。これから」

 数週間前、俺は両親に同性愛者だということがバレて家を追い出された。

 いくらバイトしてると言っても、毎日ホテル生活できるほどの余裕があるわけではないので、ゲイ専用サイトで一晩だけでも泊めてくれる優しい人を探していたら、既婚者のはずの親戚を見つけた。

 驚きのあまり一瞬固まってしまったものの、彼がこのサイトを使っている理由が知りたくなって連絡したところ、酔った会社の同僚がふざけて登録したとのことだった。奥さんの事も、離婚したとあっさり話してくれて、社長をしていると政略結婚なんて稀にあるものだと教わった日が懐かしい。

 そしてサイトを利用していた俺はもちろん親戚の叔父さん――伊織(いおり)さんに同性愛者だとバレているので、事情を説明したら案外すんなりと「暫く家にいてもいい」と言ってくれた。

 住まわせてもらってから数日。最初こそ素晴らしい豪邸で、朝昼晩(家政婦の手作り)の豪勢な食事付きの贅沢な日々を送っていたが、次第に望んだものが想像の倍になって返ってくる現象に、少しの恐怖を覚え始めていた。

 伊織さんは有名企業の社長でそれはそれは金持ちだ。二十八歳で独身のくせして、家の外観も家の中もベッドだってどれも高級だし、一般庶民がそう簡単に触れて良い品物ではないと思うほどの物がたくさんある。きっと揃えるのに何千万という金がかかっていて、その家を維持するのにも、とんでもない大金がかかっているはずだ。なのに、俺がテレビを見ていて「イチゴ美味しそ~」と何気なく言ったのを聞いていた伊織さんが、全国からイチゴを取り寄せてきたり、たまたまニュースの温泉特集を見ていたら、俺に何も言わず有名な温泉旅館を貸し切りで予約したりする。

 要するに、伊織さんは俺に対して金を使いすぎなのだ。このまま何不自由なく生活していくと、いつか一人になった時に何もできない人間になりそうで怖い、というのはもちろんある。贅沢な悩みかもしれないが。けれどもそれ以上に、俺は彼自身のためにもお金を使って欲しいと思うのだ。だってそのお金は伊織さんが働いて稼いだお金なのだから。

 少しでも出費の負担を減らしたくて、家事担当を申し出たことがあったが、

「大変だろうから家政婦に任せるといい」

 ときっぱり断られてしまった。それでも俺は王子でも御曹司でもなんでもなく、ただの庶民なのでついムキになってしまい、料理だけでもやらせてくれと頼み込んだのがついさっき。すると伊織さんはこう言った。

「なら食材の買い物は家政婦に任せよう。何が作りたいか言ってくれたら買ってきてあげるよ」

 違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。

 俺は大変なことも楽しいことも、全部を伊織さんと一緒に経験していきたい。

 買い物に行くのも、荷物が重たいのも、歩き疲れるのも、色んな偶然に出会うのも、全部伊織さんとがいい。隣に伊織さんがいて、それが俺の中で思い出となっていくのだ。

「……金がすべてじゃ、ないだろ……。ばかやろう……」

 俺はもう、恋に落ちている。昔とは違う意味での『好き』に気づいたからこそ、気持ちが大きくなって、あふれ出てしまって。

なんでも金で解決しようとするな。

 なんて言葉を吐き出してしまった。強く当たってしまったのだ。

 久しぶりに会った彼から政略結婚だったと聞かされた時、心の中でホッとした自分がいたのは隠しようがない事実で、けれどその時はまだなぜ自分がホッとしたかなんて、理解していなかった。小さい頃から優しくて大好きだった叔父さん。お父さんがダメだと言って買ってくれなかったお菓子やアニメの変身グッズも、内緒だよと言って買ってくれたのは他でもない伊織さんだった。

『この間テストで満点を取ったんだって? 頑張ったね。ママとパパには内緒で叔父さんが何かご褒美を買ってあげよう。何が欲しい? お菓子? それともおもちゃ?』

『カナくん。進級おめでとう。この間会った時に話していたアニメ、たまたま寄った書店でくじをやっていたのだけれど、一緒にやりに行くかい?』

『修学旅行のお土産? いいよそんな気にしないで。行事とは言え、楽しんでね』

 目を閉じれば優しかった頃の伊織さんが浮かび上がってくる。

 褒めてくれる時の大きくて温かい手。細くて華奢な手が俺の髪に触れるあの指が、気持ちよくて大好きだった。試験に合格したわけじゃないのにくじを引かせてくれたり、新作のアイスをシェアして食べたり。修学旅行も、お土産にあれが欲しい、これ食べたいなどと言ってきた両親とは違って、俺が楽しむことを優先してくれた。

 今は優しくない、なんてことはないけれど、この時の俺はまだ幼かったから。

「……親に内緒で色々買ってくれたり連れてってくれた叔父さんを、優しい人だって思ってたんだろうな」

他所は他所だから我慢しなさいと言われた物も、伊織さんに言えば買ってもらえた。漫画もゲームも。決して厳しすぎる両親ではなかったけれど、伊織さんの方が優しいと、感じていたのだろう。

今も住まわせてもらっていて、美味しいご飯も温かいお風呂もふかふかのベッドも、感謝してもしきれないくらい、助かっている。

けれど昔と同じはイヤだと、思ってしまったのだ。

そんなガキの俺が、自分のワガママで彼を傷つけた。

「……寒くなって来たし、ミナミさんとこでも行こうかな」

 携帯の時刻を見ると、家を飛び出して早くもかなりの時間が経っていた。東京と言えど夜は冷える。俺は腰かけていたベンチから立ち上がると、ミナミという知り合いがマスターをしているゲイバーに向かった。

「いらっしゃ――お、カナちゃん! 久しぶりだね~」

 店に入るとミナミさんがグラスを磨きながらカウンターの端まで来てくれた。俺は小さく頭を下げていつもの席に座る。

 ミナミさんは、俺が初めて来た時からずっといる従業員で、つい先週、見習いからマスターへ昇格したらしい。厳密にはマスターが足の骨を折る怪我をしたので代理、というかたちだったらしいが、ミナミさんは普通に接客が上手いので、俺はもう彼がマスターでいいと思っている。

「いつものでいい?」

「うん。ありがとう」

成人年齢が十八に引き下げられてる今、俺はもう未成年ではない。つまりはアルコールを飲まなければ別に捕まることはないということだ。

「最近見かけないから、やっとちゃんとした彼氏ができたんだと思ってたのになぁ。今日はどうした?」

 そう言ってミナミさんは、いつも俺が飲む炭酸をグラスに注いでくれた。俺を元気つけるためか、サクランボがグラスの中に入っていてちょっと気持ちが楽になった気がする。ほんとミナミさんって、客の機嫌取るのうまいよな……。

「……俺、親にゲイバレしてさ、この前。家追い出されたから、サイトにログインして寝床探してたら、既婚者だったはずの親戚見っけて、暫くそこにいたんよ」

「……既婚者が、ゲイサイトを…………? ま、まさかカナちゃん、不り」

「なわけないでしょ。俺が不倫相手なら何が不満でこんなとこ来るんだよ」

 俺はミナミさんの言葉を遮って否定した。確かに、と彼は顎に手をあて真剣な表情で納得している。

まぁ仮にまだ結婚していたとしたら、俺との関係がバレてはいおしまい。になってただろうし、そっちのが気分的にも楽だったのかもしれないな。今更だけど。

「その親戚さ、超絶金持ちの社長なんだよ。だから、なんか政略結婚だったらしくて、お互い合意じゃないからって、話し合ってすぐ別れたらしい」

「そんな漫画みたいな話、本当にあるんだな……」

 それに関しては俺も同じだ。なんかもう、住む世界が違いすぎて。話を聞いた時は頭も心も体も追いつかなかった。

「もーさ、家もすげぇ豪邸だし、毎日家政婦さんの作った豪華な食事に、キングサイズのベッドひとりじめできんのよ。でもさ、金持ちの人なら普通なのかもしれないけど、庶民には合わな過ぎて……」

 変にそわそわして落ち着かないし、家の中に身内以外がいるのも慣れないし、今までは料理とか掃除とか俺もやる時があったから、『何もしなくていい』が俺の体に合わなかった。

「誰もが一度は夢見る生活をしてたのに、それが不満って贅沢なやつだなぁ」

「んなこと言われても」

「……ま、でも実際に経験してそう思ったのなら、案外そういうもんなのかもね。夢を見るのは自由だけど、実際にその通りになるかって言われたら、そうじゃないことの方が多い」

 そう言ってミナミさんは後ろの棚からチョコレートを取りだした。コンビニによく売っている、ファミリーパックのやつ。袋を開けて中から三つほど俺に渡してきた。

「店開ける前にコンビニで買ったんだ。食うか?」

「ん……ありがと」

 俺はそれを食べながら、伊織さんについても話した。お金の使いすぎだとか、何でも規模がデカすぎるだとか、……恋しているとか。

「もう、子供の頃とは違うんだよ……。全部を一緒にしていきたい。でも、金持ちの人にとって、そういうのって面倒なのかな……」

 小さい頃の『おもちゃとかお菓子とか買ってくれる大好きな優しい叔父さん』から、『大好きな一人の男性』に変わってしまった。

 もう、後戻りはできない。

「金持ちの人がどーのじゃなくて、恋愛そのものがめんどくさくね?」

 いきなり隣から声が聞こえ顔を上げると、見覚えのない派手髪の男が俺の隣に座ってきた。過去にこの店で何人もの人と『一夜きりの関係』を築いてきた俺にとって、彼が初めての人なのか、過去に会ったことのある人なのかは分からない。けれども、話を聞いていて俺の隣に座ってきたということは、少なからずそういうことなのだろう。

「……ごめん今日は俺そのつもりで来てないんだ。また今度にしてくれ」

「え~。せっかくその金持ちさんを忘れさせてやろうと思ったのに」

「忘れる……」

 忘れられたら、どれだけ楽になれるだろうか。

 男が好きだと気づいたきっかけは、多分伊織さんだったと思う。初めて会った時はきっと一才とか二才とかの本当に小さい頃だったと思うので、覚えていないけれど、年を重ねるうちに、優しくて大好きな彼の隣にいる奥さんが、羨ましいと思うようになっていて。親戚の集まりがある度にこっそり見つめていた。

『大好きな人が取られた』という子どものヤキモチから生まれたこの感情も、経験豊富そうな彼の隣に行くためには、まずは自分がそうならなきゃ、というバカな考えにいたるくらい、彼が好きで、俺の中で大きくなっていた。

とにかく無我夢中で、俺がこの店に来て所謂男漁りをはじめたのは数か月前。

デートも、外で手を繋ぐのも、ハグをするのもやった。夏は海に行ったし、冬はイルミの前でキスだってした。泊りがけで遊びにだって行ったし、ラブホテルにだって何回も行った。そのせいで親にバレたのだが、今はそんなことどうだっていい。

 久しぶりに会った時にそう思わせてくれたのは、他でもない伊織さんだった。

『実際その通りになるかって言われたら、そうじゃないことの方が多い』

 さっきのミナミさんの言葉が頭をよぎる。

 俺が憧れて好きになったのは、彼が金持ちだからではない。彼といると贅沢な暮らしができるからでもない。でも、じゃあ逆に、俺は伊織さんに何を期待したのだろうか。

「…………あ~~もうわけわかんねぇ。もう何でもいいや。ホテル代、あんた持ちならついてくから、案内して」

「ちょ、カナちゃん!?」

「お、マジ? やったね。二丁目に新しくできたラブホがあってよ~」

 ぐるぐる悩んだ挙句、明確な答えが出る気がしなくて、俺は考えることを放棄した。ミナミさんから貰ったチョコを口に投げ入れボリボリ噛んで、そのまま隣の男についていくことにして立ち上がると、首に腕を回された。入り口まで引っ張られるように歩いてく俺を、ミナミさんは不安そうな顔をして見ている。

「……大丈夫だって。また来るね。話、聞いてくれてありがと」

あとチョコも、と言って俺は五千円札をテーブルに置くと、特に意味もなく携帯を取り出した。

その時。

「か、叶冬っ!!」

「……っ!?  は、え……なん……」

 とんでもない大きな音とともに目の前のドアが開き、外から汗だくの男性が飛び出してきた。

「な、なんなんだよオッサン!」

 ホテルへと誘った男は、俺の首に回していた手を反射的に離し叫ぶが、それでも気にせず汗だくの男性は俺の前まで来て、その大きな体で俺を包むように抱きしめた。

「叶冬……、かなと……っ」

骨が折れそうなほどの強い力で抱きしめておきながら、俺の名前を呼ぶその声はか弱く、必死に絞りだされているようで。

 震える指で俺の髪を梳き、震える声で俺の名前を何度も呼ぶ。

 学生の平均身長しかない俺と、大人である彼とでは、身長差がかなりある。だから例えではなく本当に包み込まれているので、身動きが一切取れない。

「い、おりさ……っ、は、なし……」

「すまない……。でも、今きみを離すとまた……っ、またどこかに行ってしまいそうで…………」

 人前でのハグなんて、もうとっくに慣れてしまって、ドキドキなんてしないはずなのに。

 爆速で動く心臓の感覚が久しぶりすぎて、俺の頭は大混乱している。きつく抱きしめられているのに、苦しいのは息ではなく心で、わけが分からない。

「ほんと、ねぇ……っ。み、な見てる、し……」

「――――好きだ」

「は、ぇ」

「好きなんだ。……っもう二度と、俺から離れないでくれ。頼む……」

 伊織さんの口からあふれ出たその言葉に、俺は「はい」と返すことしかできなかった。



「伊織さん」

「はい」

「聞きたいことしかないからいっぺんに聞くね。どうして俺の居場所分かったの? その指の傷は何? あとキッチンが焦げ臭いんだけど。そして家政婦の人たちはどこ? なんでそんなに汗だくなの? 車は? …………俺のこと、す きって、ほんとなの……」

 あの後もずっと抱きしめているようだったから、しびれを切らした俺は店の外に伊織さんを追いやって、そのままミナミさんに謝りながら店を出た。

 てっきり高級車が近くに止まっているのだと思っていたが、電車を乗り継いでここまで来たらしく、帰りも一緒に電車に揺られて家まで帰って来た。そして今に至る。

「……カナくんの居場所は、お母様から聞いたんだ」

「母さんって、俺の家に行ったの!?」

「カナくんが出て行った時、頭を冷やしてしばらくしたら戻ってくるとばかり思っていて、だから僕も一人になって少し考えていたんだ。けれど何時間経っても帰ってこないし、連絡もつかないし……」

 いてもたってもいられなかった。と話す伊織さん。

 最初に俺のバイト先に行って、いないことを確認した後、家に行って両親に俺の行きそうな場所を聞き出したという。そしたら、上着のポケットに入れっぱなしだったミナミさんの連絡先が書かれた名刺を母さんが見つけていたらしく、もしかしたらと話したそうだった。

「そしたらカナくん、若い男の人とどこか行く雰囲気だったから、思わず……。ごめんね。人前で、というか、お店の中で抱きしめちゃって。でも、僕のカナくんが好きって気持ちは、本物だよ。ずっと、ずぅっと前から、好きだったんだ」

 ソファに座る伊織さんが、目の前で仁王立ちしている俺の頬にそっと手を伸ばす。絆創膏が乱雑に貼られている親指で目元を擦り、ふっと柔らかく微笑んだ。

「……」

「あ、指の怪我はね、その……料理をしていたら、つい……」

 俺の指への視線に気づいたのだろう、伊織さんは頬から手を離し傷ついた両手を見つめた。

「なんで、急に料理なんか」

「僕は今まで、人にして喜ばれてきたことって、お金を使うことしかなかったんだ。お金を使ってレストランに連れて行ったり、お金を使って洋服をあげたり。ありがとうって喜んでくれることはどれも僕のお金が関係していた」

 だから、俺にも同じように金を使えば、俺は喜んでずっとここにいてくれると、そう思ったらしい。

「……なんか、ごめんなさい……」

「ううん。カナくんが謝ることじゃない。お金があるからってそれで機嫌取りとか、なんでもそれに頼りきりは良くないよね」

 伊織さんは俺が出て行ってからお金に頼らず自分から何かしてみようと考え、真っ先に浮かんだのが料理だったらしい。そしてお金に頼らないために、今までいた家政婦さんたちの契約を解除して、全部一人でやってみようと思ったのだとか。そしたら思った以上に何もできなくて、指をケガするわ鍋やフライパンを焦がすわキッチンめちゃくちゃになるわで大変だったそうだった。そしていつまでたっても俺が帰ってこないから、車ではなく電車を利用して俺のところまで来たという。

「なんで車じゃなかったの?」

「……気持ちが落ち着いていないまま運転すると、事故を起こしそうで怖かったんだ……。情けない話だよね」

「……電車、乗ったことあるんだ」

「それくらいはね。かなり前だけれど。でもやっぱり切符買うのには少し手間取ったな」

「ふはっ、なんとなく想像つくかも」

「……やっと笑ってくれた」

 え? と言う前に、俺はまたソファから立ち上がった伊織さんに抱きしめられてしまった。

 でもさっきとは違って、その手つきはとても優しいもので。再び心臓の動きが加速する。

「……僕にはお金しかない。だから、カナくんにいっぱい色んな事を教えてもらいたいな」

 きゅうと胸が、心が締めつけられる。勝手に涙が出て、伊織さんの服が汚れてしまうも、彼は気にせず抱きしめるものだから、困って仕方がない。

「い、いおりさ、ん……」

「ん? なんだい?」

 俺が名前を呼ぶと、少し抱きしめる腕の力を緩めてくれて、視線がぶつかる。彼のキレイなアプリコット色の瞳に情けない顔の俺が映って、顔に熱が集まるのを感じた。

「あ、その……。おれ、も……伊織さんが、好き……」

「……っ」

思わず視線を逸らしてしまったが、俺の声は彼に届いたようで息を飲む音が聞こえた。

 そろり、と再び視線を上げると、今までに見たことのないような笑顔の伊織さんが、そこにはいた。目を細めて笑う、幸せそうな表情。

「……ふふっ、嬉しい」

俺は、そんな伊織さんを見てさっきまでの悩みがストンと府に落ちた。

 きっと人を好きになるのに、理由なんていらないんだ。

金持ちだから、いい職に就いているから、顔が広いから、豪邸に住んでるから。

 そんなの関係ないし、そうじゃなかったとしても、俺はこの人を好きになっていたと思う。

 何を求めているとか、どこが好きとか、そんなレベルじゃない。伊織さんという存在が、俺のすべてなんだ。

 恋ってすごい難題で、恋愛なんてもっと理解不能だけど。

「ん……」

「……っ!? なっ、い、いきなり……っ」

 すごく心地よくて、あたたかいものだと俺は思う。

「へへっ……キス、しちゃった……」

「~~~~カナくんってば、ちょっとは手加減してよ……」

 赤く染まった顔を手で覆い隠す彼が可愛くて、ふふっと笑みが零れる。

「これからよろしくね。伊織さんっ」

 このあと食べた伊織さんの手作り料理は死ぬほどマズかったけど、人生で一番大好きな食べ物になったので、今度は一緒に作ろうと誘うと「料理は君に任せるよ」と断られてしまった。

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