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「知ってみようか」という始まり 【チ。 10話】

なぜですか。
なぜそんな悲劇を味わったのに、
学問とか研究とか、
そういうことから離れないんですか。

神が人間に与えてくださった可能性を自ら放棄したくないからです。
それによって私は歴史的な特別な瞬間に立ち会えるかもしれないですし。

しかし、あなたが持っている行き過ぎた好奇心や、
必要以上に多くを知ろうとする欲望には際限がない。
いずれはそれ自体が目的化して非道徳的なことまで知ろうとするようになる。

既にこの世は非道徳的なことで溢れかえっていませんか。
クラボフスキさん、そういう世界を変えるために何が必要だと思いますか。
「知」です。

チ。10話より
クラボフスキとバデーニのやりとり

今回の話の山場はどこかと聞かれたら、
おそらくこの場面だろう。

研究による悲惨な過去を持ちながらも、
なぜ、研究を続けるのか。

このクラボフスキさんの問いに対し、
きっぱりと答えたバデーニ。

自分の可能性を放棄しないため。
世界を変えるため。
自分の「知」との向き合い方に明確な解答を持っている。

「知」によって世界が変わる。
これは前話の記事でも取り上げたところだ。

さらに絵心さんのセリフとも、
「放棄しない」という意味でつながる部分がある。

一方で、今回自分が一番面白いと思ったのはこの後。
このバデーニの言葉を聞いたクラボフスキさんは、
図書館へ行く。

おお、クラボフスキさん。
教会を出るなんて珍しい。

ええ、ちょっと町の図書館へ。

図書館?
何か用が?

いえ、何も。
ただ、久々に用もないものを知ってみようかと思って

チ。10話より
村人とクラボフスキのやりとり

クラボフスキさんの「知ってみようか」は、
「知りたい」よりももっともっと手前にある、
「知」の入り口だ。

休日の朝に晴れ晴れとした気持ちで目覚めて、
「今日は本を買いに行こうか。」
そう思うことがある。

明確に買う本は決まっていないけれど、
自分の好奇心を刺激する「何か」に出会いたい。
そんな気持ち。

そんなほんの僅かな「知ってみようか」が、
自分の人生に火を灯すきっかけになるかもしれない。

だからこそ大切なのは、
こうした自分の心の「小さな動き」に対して、
敏感かつ従順になることなのだろう。

芽を出した「新しい自分」を認識して、
「行ってみようか」と思った場所に連れて行ってあげる。
「やってみようか」と思ったことをやらせてあげる。
それが、何かの「始まり」になるかもしれない。

この日、
「用もないことを知ってみようか」と思って、
図書館に足を運んだクラボフスキさんが、
この後どんな展開を迎えていくかが楽しみである。




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