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ひとりで海外へ飛んだ
これを読んでいる方々は、海外へ行ったことはあるだろうか。もしくは世界のどれくらいの人が海外に1人で飛び立ちたいと思ったことがあるのか。
好奇心旺盛な人もいれば、怖くて行きたくない人も多くいるだろうと思う。私の場合は、後者だ。
そもそも身の回りのことが"ちゃんと"していない。おっちょこちょいの度を越しているし、仕事にもそれが影響してミスをしてしまうことも多々。東京生まれ東京育ち。この私が東京の電車すら間違えてしまう。
そんな人間が、今、1人で飛行機に乗ってある場所へ向かっている。目的はちゃんとある。
父に会うためだ。
最後に会ったのは5歳の時。
私が1歳の時に離婚した父は母国のチリへ帰った。
4年後、私に会うために来日した。成田空港で母と入国出口で待っていたの覚えている。
母の目線とは違い、私はガラス張りから他の場所を見ていた。それが他のフロアだったのか、壁だったのかは覚えていない。けれどガラスに触れていたのは覚えている。
ふと視界が高くなり、誰かに持ち上げられ肩車されたことを理解する。
落ちないようにギュッと握られた手は、少し皺がある大きな手だった。
一瞬で気付く。私の父だ。
少し強い、いやかなり強い香水が私を包む。今でも街でこの香りを見付けると、懐かしく思う。
あのジョリジョリした顎でほっぺにキスされるのがとてもいやだった。嫌悪とかそういうものではなく、嫌というよりかはひらがなで、"いや"。要するに恥ずかしい。
私たちにはキスという挨拶の概念がない。父は思い切りほっぺを吸い取るくらいしてくる。それが"いや"で大好きだった。
それからというもの、会わないけれど、インスタが普及してからインスタで話すようになったり、あちらの家族のいとこと密に連絡取れるようになり、ビデオ通話したりなど、生存確認は出来ていた。
ふらっと気が向いたら連絡してくるし、私がしても返答がない時も多かったし、それは恐らく彼女がいる時。私の父は、かっこいい容姿故に実にファンキーでトラブルメーカーだった。そう誰からも聞く。
しかし、現に、私はそんな父に会いに飛行機に大急ぎで飛び乗っている。何度も会おうとは思っていたが、叶わなかった。それはチリに行くには40万程のお金と時間と33時間の乗り継ぎが必要だ。社会人の私にはまず時間が無かった。お金だって直ぐに用意できるものでは無い。ましてや、広島へ1人で向かった時、CAさんを走らせてしまったり、友達といった大阪旅行すら空港間違えてしまったりで、そんな1人でいくなんて思考にはならなかった。
数日前から、胃がムカムカして、具合も良くなかった。いっぱい食べれていた甘いものが要らなく感じた。何となく、変な感じはあった。
ある日の朝、普段通り仕事の支度をしている時だった。チリの家族から連絡があり、良くない一報が届いた。
父の具合が良くないとは聞いていたが、まさか癌だなんて。しかも末期の。もう明日、明後日に亡くなってもおかしくない。そう聞かされた。
呼吸が浅くなり、全身の血が止まったかのように冷たくなっていく。
今度にしよう、2年後くらいに会いに行こう。そんな考えが私にはあったからこそ、自分の愚かさが目から水となって溢れ出てきた。
今思えば、あの胃のムカムカは虫の知らせだったのだろうか。父の癌は胃癌だった。
1日仕事をやり切ったが、もちろん店頭に立つことはしんどい。なるべく裏作業がしたいと伝えた。
皆が、幸せそうに見えて、苦しくなった。
何だか恨めしくなって、当たってしまいそうで。
なんで私ばっかり。こんな思いしなきゃいけないんだろう。そもそも日本の家族だってママ以外は私に優しくない。祖母以外繋がりもない。パパは離れていても愛を感じていたし、愛していた。パパが居なくなったら、私にはママしかいないよ。ママも居なくなったらいよいよ独りだ。私にはまだあげれていない愛がたっぷり残っているのに。まだ渡せてないのに。
とにかくまだ死んではいないのだ。意識が無いとはいえ、まだ暖かいのであれば会いに行って触れるべきだ。手を握るべき。
そう思った私は、直ぐにチケットをとってあちらの親戚のサポートを受けながら飛行機に無事乗った。
しかしこういう時は、思ったようにいかないものだ。
現在、乗り継ぎ出来ずに、シドニーで停泊中だ。
次回、アマプラ見ながら航空会社から出たお金で豪華ルームサービス。