発達障害をアイデンティティにしてはいけない理由
障害が免罪符と化す
よくXのプロフ欄で発達障害をカミングアウトしている人がいます(私もそうです)。
それ自体は当事者同士でコミュニティ(自助会など)を形成することに有用なので否定しませんが、中にはそれが免罪符かのように勘違いしている人がいます。
障害を盾に相容れない価値観を持っている人に対して、誹謗中傷めいたリプを飛ばすことも珍しくありません。
当たり前ですが如何なる障害を持っていたとしても、免責事由にはなりません。
強い言葉にはそれ相応の責任が伴います(自戒の念を込めて)。
論理的な批判はもちろん自由に発信すればいいと思いますが、感情を剥き出しにして、例えば個人に対しての容姿差別などは慎まなければなりません。
成長余地がなくなる
発達障害はその名の通り障害の一種であり、人生におけるデバフであります。
進学や就職に際して、ビハインドを負うというというのは耐え難い苦痛であり、人生を投げ出したくなるのも無理はありません。
Xにも中国の寝そべり族よろしく、成長可能性を放棄して人生を嘆くことに終始している人もいます。
しかし当然ながら、発達障害者にも成長余地はあります。
健常者と比較すると確かに脳の発達は緩慢かもしれませんが、それでもじわじわと成長していきます。
要するに大器晩成タイプというだけなのです。
朧気な記憶ですが、確か科学的な裏付けもあったはずです。
なので発達障害に縛られて行動を抑制する必要など全くありません。
後天的な努力を過小評価して得られるはずだったものまで放棄するのは本当に愚かです。
参照点を自分に合わせてみれば過去の自分との差異がより明確になります。
「発達障害者に安楽死を認めるべきだ」といった過激で過剰に一般化された言説に惑わされないようにしましょう。
能動的に動いて得られるものに価値がある
容姿や知能と同様に、発達障害は先天的なものです。
確かに他人と差別化を図りたいときに発達障害を名乗るのは手っ取り早いですが、それがアイデンティティになり得るのかは疑問です。
せめて発達障害の特性を活かして得られたものを自分らしさにした方がより承認欲求を満たせるのではないでしょうか。
かの世界一の富豪のイーロンマスク氏はASDを公表していますが、彼はASDだから有名になったわけではありません。
突き抜けた個性(Xでの発言を見れば明らか)が彼のビジネスを世界的なものにしたのではないかと私は思います。
とにかく行動しなければ自分が何者であるかすらぼやけたまま生涯を閉じることになります。
そうなりたくなければSNSはそっ閉じして、色々なコミュニティに身を投じてみるのが良いと思います。