12年間人としゃべれないということ(場面緘黙症について①)
私は小学1年生から高校3年生までの多感な年ごろの12年、学校でしゃべることができなかった。
確か小学生のころ、母が買ってきたワープロに入っていた家庭の医学みたいなやつのなかで「場面緘黙症」というものがあることを知った。
学校でしゃべることができないなんて、こんな人間世界中に自分一人だけだと思っていた。
実際は病名がつくくらいには同じ症状の人たちがいたらしい。
しかし親も学校の先生も養護教諭も、当然級友たちの誰もそんな病名知らなかった。
「なんでしゃべらないの?」
何度も聞かれた。
1年生の時、担任の先生が妊娠して代わりの人が来た。
「しろりんちゃんはしゃべれません」
とことあるごとにクラスの前で話していた。
ただ、たった一人だけ保育園から一緒で近所に住んでいた幼馴染とだけはしゃべることができた。
記憶のないうちから遊んでいたからだと思う。
担任はなぜかその子の名前をみんなに復唱させた。
「しろりんちゃんがしゃべれるのは誰ですか?」
「〇〇ちゃんです」
という謎の時間があった。
担任は私を助けようとしていたんだろうか?
みんなに私がしゃべれないということを刷り込まれ、私はますますしゃべれなくなっていった。
幼馴染とはしゃべれていたように、しゃべれないけどしゃべれないわけじゃない。むしろしゃべりたかったし、クラスに慣れてきたころにしゃべってみたいと思った記憶がある。
もしかしたら異常なほどの人見知りだっただけで、なれたら徐々に喋れていたんじゃないかとも思う。
でも、担任がクラスメイトに「しろりんはしゃべれない」と刷り込み続けたせいで、しゃべってはいけないような気がしていた。
みんなからしゃべれないと思われているのに、しゃべりだすことが怖かった。
今思えば1年生のころの記憶など曖昧なのだから、みんながぼんやりと毎日すごしていた時期にさりげなくしゃべりだせばよかったんだと思う。
でもあまりに刷り込みされ続けて声が出なくなってしまった。
あの担任との出会いが私の人生を大きく変えてしまった。
なんと、私はそれから12年もの間学校でしゃべることができなかったのだ。
3年生の時、朝の会で1分間スピーチという地獄のコーナーがあった。
当然私は何も言えずに固まってしまった。
先生は助けてくれなかった。
朝の時間が終わり1時間目がはじまってもまだ私はみんなの前に立たされていた。
教室からは次々とため息が聞こえてきた。
その日は教育実習の優しい大学生のお姉さんもいた。
助けてあげたいという気持ちがその人からだけは伝わってきたような気がする。
でも担任のおばさんには逆らえず、固唾をのんで見守ってくれていた。
最終的に担任のおばさんが「言いました」とだけ言えと命令してきて、勇気を振り絞って小声で言った。
クラスメイトは喜んでくれた。
ずっとしゃべらなかった子が「言いました」といったことを喜んでくれた。
いじめられることもなく、ありがたいことだったと思う。
その後は徐々に、授業中に答えないといけない時や教科書を読まないといけない時にだけはごく小さい声でいえるようになった。
地獄の荒療治だったがもしかしたらあれがきっかけになったのかもしれない。
しゃべれないということは当然友達もできない。
それでも小学生の頃はクラスのほとんど全員で自然と遊んだりしていたので、遊びに混ぜてもらっていた。
周りの子は優しくて本当にありがたかった。
でも遠足の時はいつも不安で仕方がなかった。
3,4年生にもなればグループができる。
その中に入ってないとひとりぼっちになってしまうのだ。
遠足はいつも不安との戦いだった。楽しみだったことは人生で一度もない。
幸い、優しい子たちが入れてくれたり先生が促してくれたりして小学校時代は乗り切った。