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12年間人としゃべれないということ(場面緘黙症②)

場面緘黙症の私と親との関係。

母親は私に無関心だった。
表面上はごく普通の母親だったと思う。

でも大人になってあの人は自分で言っていたような放任主義ではなく、子供に無関心だったのだなと気づいた。

子供が学校でしゃべれないこと。
友達ができないこと。

担任から全く聞いてないわけはないはずで、実際しゃべれてないことは知っていた。

でも何もしてくれなかった。

今でこそ子供に気になるところがあれば児童精神科に連れていく親は多いけど、当時はそんなところに行くなんてとんでもない場所だとか、そもそも発想がないレベルだったと思う。

ただ無知だっただけかもしれない。
でも知ろうとすれば当時でも何か情報はあったはずだ。

私がどれほど深く傷つき、生きるか死ぬかギリギリのところで毎日を過ごしていたことなどは母知らない。


父はよく

「口があるんだから聞けばいい」

と私に言った。
しゃべれない私に。

それができないならどうしたらいいのか、できるようになるには何を手助けし、どんな場所に連れて行けば変わるのだろうか、

なんてことは一切考えなかったらしい。
ただただいつも責められた。

学校でのうっ憤を晴らすように家ではよくしゃべり、よくかんしゃくを起こした私に父は

「学校でもそのくらいしゃべるのか」

と言ってきた。
それを言えば私が黙るのを知っていた。

ただ私を責めていれば学校でしゃべりだすと思っていたのだろうか。

もし両親がしゃべれない私をまず受け入れ、どうしたらしゃべれるだろうと話を聞いてくれていたら。
しゃべれないのが悪いことではなく、本人が一番苦しいんだということに考えが及んでいてくれたら。
私も苦しんでいることを話せていたら。

私は多分、環境さえ変えてもらえればしゃべれたのではないかと思う。
周りが「しろりんはしゃべれない」と認識している場所で急にしゃべりだす勇気がなかったのだ。

中学校に入学するタイミングでもし地元じゃなく誰も知らない学校に行けていれば、人生をやり直せていた可能性は高い。

でもそんなこと言えなかった。

しゃべれないことについて親は責めてくることはあったけど、話し合いをされたことがただの一度もない。

ただただ、お前はダメな子供だといわれ続けていたように思う。

ある日、熱を出した私は母に小児科に連れて行ってもらった。
看護師が私に直接症状について聞いてきたとき、何も答えることができなかった。

それを母は家に帰って父にチクった。

父は怒り出し「なぜ言わないのか」私を責め続けた。

私はいたたまれず、食欲はあったのに夕食を食べることもできずに部屋に帰って一人泣いた。

ただ責め続けるだけで症状が改善するとどうして思うんだろう。
大人になり、私も人の親になった今、両親の私への関心のなさ、心に寄り添わない態度、現実的に解決しようとしない頭の悪さなどなどに気づきいやになって仕方がない。


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