指導書通り授業できるか。
教科書の添付品として教師用指導書というものがある。
教師が手にする教科書には、いわゆる「赤本」と呼ばれる「授業のヒントや解答例」が掲載されたものに加え、教師用指導書と呼ばれる、詳細な資料(毎時間の指導案もついている)があるのだ。
毎時間の指導案が掲載されているということは、もはや教材研究をしなくて良いのではないかと、私も新採の頃は考えていた。そして実際にその通りにやってみる。
そうすると、内容が時間内に収まらないのである。
これを繰り返すうちに、「もう指導書なんて使わない方がいいや」となって、指導書が埃を被ることになる。(たまに研究授業の前に開かれることもある)
このようにして順調に「指導書に頼らない」教師人生を送っていたのであるが、ある年の研究授業で、指導者である講師の先生と真っ向対立することになる。
その人は、国語の指導書通り「初発の感想を書かせるべき」「登場人物の心情を読み取らせるべき」と主張する。その対立は指導案検討の時から勃発し「指導案を書き換えないのであれば、私(講師)は指導しない」という崖っぷちにまで到達していたのである。
そこで、私は考えた。
「指導案を2種類作ろう」
1つは、完全に私のやりたい指導案。
もう1つは、講師がやってほしい指導案。つまり指導書のほぼ丸写し。
近しい教師達には「指導書丸写しを提出しておいて、当日は自分のやりたいようにする」と告げておいた。
そして当日。私はどうしたか。
そう。完全に指導書通りに単元を進め、当日の授業さえも、指導書完全コピーの授業を公開したのである。
発問も展開も全て掲載通り。ここまでやるのかというくらいに再現したのだ。
これには近しい教師達も閉口していたのだが、私には私なりの戦略もあった。
事後研修で開口一番次のように話す。
「今日の授業は誰もが持っている教師用指導書の完全再現でした。45分間の授業にこれだけの内容を詰め込むにあたり、多少無理のある強引な場面もあったでしょう。今日の裏テーマは「指導書をそのまま再現するとどうなるか」と設定しています。是非とも改善点をご指摘ください。改善点の指摘とは、課題と代案の提出だとお考えください」
この時の議論の中心は、
・登場人物の心情ばかり追っている文学作品の授業をどう改善していくべきか。
・単元の冒頭で実施される(漢字や語句の意味を含む)言語の指導は、毎時間行われるべきではないか。
の2点だったと記憶している。
この経験を活かして、私の授業は大きく2つに分かれることになる。
①本当に自分がやりたい授業
②指導書に代表されるような周りから求められる授業
普通、②はやらないのである。「こんな授業は自分らしくない」とか、「やってられない」などと言って逃げるのが普通なのである。
しかし、私は②もできなきゃダメだろうと思う。本当のプロは、どんな条件下においても、最善を尽くさなくてはならないのだろうと思う。
こうして、私は様々な修羅場で授業を重ねていくことになる。