アイドルと「本物」について考える
TwitterのTLで流れてきたこの記事。海外にてサッカーの監督養成学校に通う河内さんが書いた内容だが、web時代のサッカーと今後の日本サッカーの在り方について非常に鋭く批評した良記事である。これを読んで、少し思うところがあった。
「コンテンツ」と化したものを受動的に受け取るのは根幹への理解がなく、「本物」に触れる必要があると書かれている。読み砕くに、「自らの手でサッカーを作ってきた」=「本物」と定義している。
その定義から見ると、日本のあらゆる社会、文化の場面で「本物」は存在していないとは言えないだろうか。
NewsPicsで行われたこの対談の中で、日本の和とは何かを問われると、「寛容」であるというキーワードが出てきた。概念として、調和とノイズ、様々なものが入り交じった状態を良しとする力、すなわち寛容こそが和なのだという。
デザイナーの藤原ヒロシがロンドンに渡った後、ニューヨークへ行き、1つの国のトレンドではないミックスカルチャーが注目をされた話から、日本が多神教の国、つまり渾然一体とした様を受容することに長けた国、民族であるというトピックが非常に印象的なのだ。
日本という文化を紐解くと、確かにいつも海外から「出来上がった」状態の物が持ち込まれてきて、それを分からぬまま腹に入れたり、咀嚼したりを必死に繰り返してきた。それが船で渡ってきたものか、文か、写真か、映像か、時代が進んでいく毎に解像度が上がっていったのは間違いない。そして、解像度が上がったとしてもその根幹を忘れがちなのもまた事実だ。
ただ、これを「寛容」というフィルターを通して見ると、日本という国はその宗教という在り方すらも内混ぜに成立してしまうのである。
【分析と再構築】
この寛容という概念は、厳密には「多様」ではない。昨今、多様性という言葉が頻出するが、多様とは違うことそのものを認める行為である。日本人の寛容はいつだって他の文化を翻訳して取り込む行為だった。
だから、カレーやラーメンのように不可解なものが発生すると言ったら伝わりやすいだろうか。同じもののはずなのに全く別なものにトランスレートして生活に取り込まれ、独自の文化となっている。万事がこの調子、「本物」など存在しない。
翻訳するということは、その言葉や環境、状態など様々な情報を分析していく。どんどんと事象を切り分けていって、部品に分かれた物を再構築していく。日本人に都合の良いように合わせていく行為だ。
この再構築をする時に、元になったものの問題点を改良したり、便利な機能をつけたりすることで、日本の高度成長期における家電の進化があった(プロダクト優先の事業性や"情報"の時代に入り、加速度的にそのパワーを失うことになるのだが)
例えば、これを音楽に置き換え、日本のポップミュージックの歴史を巡ると、"歌謡曲"ですら西洋音楽の派生である。長唄やはやりうたの流れに対し、唱歌が持ち込まれ普及していった過去がある。その中で日本語に合わせて翻訳された結果、"歌謡曲"のメロディというのは外国語よりも音の数が多く、独自の進化をしていく。
宇多田ヒカルの登場に多くの人が驚いたのは、この音節の捉え方がそれまでの歌謡曲には全く無い概念だったため、非常にフレッシュだったということは重ね重ね語られているところではないだろうか。
戦後、ハワイアンやジャズの影響を受けたムード歌謡、R&Bやラテンミュージックの影響を受けたポップスなど時代時代に海外の要素を再構築してきた。90年代に入り、"歌謡曲"はJ-POPという概念に取って変わられるものの、日本人の感覚において歌謡曲で作られたこのメロ感は無意識であり、中田ヤスタカも最新のクラブサウンドをどう気持ちいいものとして組み合わせるかという作業をしていると語っている。
一見、"独自"の文化に見えるものも分析をしてみると、日本で自然発生的に生まれたものではなく、あくまでも持ち込まれたものであることが分かる。だが、分析して再構築する際に、物事の本質を捉えずに、「模倣」を繰り返して踏襲することばかりが是となっていることが、現代日本の問題点となっているように思うのだ。
【模倣無くして本質には辿り着かない】
誤解を恐れずに言えば、「模倣」は必要だ。むしろ、日本はあまりにも「模倣」に対して理解がない。それはもしかしたら完成された要素にばかり目を向けて是非を問うてるからかもしれない。「模倣」とは分析の中でそれを体得、体に染み込ませていく作業に他ならない。
言い換えるなら、RPGで言うと、敵を倒して、技を覚えるアイテムを手に入れることが分析ならば、そのアイテムを使うことが「模倣」に当たる。アイテムを入手しただけでは会得できないのだ。この「模倣」を続けると、技のレベルが上がっていく、つまり技の「本質」に近付くのである。
ただ先にも書いたように「模倣」を続けるだけでは駄目で、分析をして理論を構築していく、そこに含まれる要素がどのように影響をするのかということを理解していくことが両輪にならなければ成立しない。
【アイドルと寛容】
アイドルとは「寛容」である。西洋文化の翻訳である歌謡曲に少女性を持った歌手を結びつけた音楽はアイドル歌謡となる。
その概念が日本にインストールされたのは、64年シルヴィ・バルタンが歌う「アイドルを探せ」であり、今で言うフレンチポップにジャンルとしては当たるわけだが、そこに松本隆、松田聖子以降はっぴぃえんど、ティン・パン・アレーといったニューミュージックの文脈が織り交ぜられるのが、日本ポップス史における79年の重要性である。
90年代のバンドブームやTKブームのうねりがあるものの、アイドルの音楽というものは、常にアイドルという存在に、プロデューサーや職業作家が持ち込む音楽性を掛け合わせた寛容に成り立っている。アイドル音楽というととかくセルアウトした稚拙な音楽と見られるが、むしろ実験場といっても過言ではない。
それは、今日のアイドルを見ても、音楽ジャンルで縛ることの出来ない多様な編曲、楽曲構成がアイドルとして消費されている。だから、アイドルというものを定義しようとした時にこのジャンルの多様さが先に目について、その真ん中に立たされる少女は酷く空虚な器、少女性を体現するだけの代物のように見える。誰もその少女のアイドルとしての「本質」を据えかねていたのだ。
【アイドルによる分析と模倣】
ここまでの話を集約していこう。
・日本の和、アイドルは「寛容」の文化
・寛容は他の文化を分析、再構築した翻訳
・模倣と分析の両輪が必要
そして、おニャン子、90年代のハロープロジェクト、AKB48と時代が進んでいく中で、絶対に届かないカリスマだったアイドルが少しずつ一般化していく。前段で据えかねていたと言われる部分は、ある意味、その子の持っている資質に担保されていたわけだが、これまでアイドルのブームというのはおおよそ3年程度の周期で盛り上がっては下がった。もう1度上がってくる時には、別なカリスマが現れるというものだったのが、永続性を帯びてくる。指原莉乃と柏木由紀の登場である。
言わずとしれた熱狂的なハロヲタの2人だが、この2人によってアイドルの「本質」をアイドル自らが分析し、模倣され、再構築されることとなる。
ファンとの関係性、歌、パフォーマンス、曲中のコミュニケーション、会場規模、グループの成長ストーリー、アイドルの要素を徹底的に分析して、何が必要で、何が不要か、どうしたら刺さるか、伝わるか、という取捨選択をしていく。
その方法論やレベルはそれぞれ異なるのだが、柏木は1度はっきりと、色んなことを教えてあげようと思ったこともあるけどもったいないと口にしたこともある。その後のメイキングで、曲中の表情の作り方について後輩に話しているシーンもあるから、やはり本人の中で明確に言語化出来るレベルで、分析、再構築されているのだ。
指原は、HKT48で自分の持っている様々な知識、技術が実験されてきた。今、韓国でIZ*ONEとして活動する宮脇咲良は、その細かな気配りやバラエティでも率先して活躍する様を"宮脇プロ"と呼ばれているが、本人は全て指原が教えてくれてくれたこと、と話す。そして、それをさらにアップデートしたものが=LOVEに注ぎ込まれているというわけである。
【立ち塞がる"本物"】
しかし、彼女達が引用するアイドルというものを見ると、ハロプロはアイドルを作ろうとしていないし、秋元がしているのはアイドル文化を作ることではなくて、少女性を金に変えているに過ぎない。
指原、柏木が導き出した理論のアイドルというのは、言わば、エジプトにおけるミイラの作り方が書かれた秘伝書のようなもので、限りなく"神"に近い何かの姿に近付けるよう再構築の方法を見つけたわけだ。それは本当に"本物"のアイドルだろうか。
時代を2010年代に向けると、名乗ればアイドルになれる状況へと突入していく。アイドル歌謡、グループアイドルと経て、職業作家の実験的な楽曲などと寛容していった文化から職業性、カリスマ性が排除された結果、形だけが「模倣」されたと言える。分析もなく、質の低い模倣で繰り返される量産は下方にスパイラルを起こしている。「偽物」がどんどんと増えている。
だが、そもそも、日本という国は「寛容」の文化である。味噌もクソもこだわりが無い種族である。大体、侘び寂びなどと言って、欠けた茶碗に価値を見出すようなものを日本人の大事な感性と言ってる辺り、よく分からんものに納得することに長けていて、偉いっぽい人の権威付けにめっぽう弱いのが分かる。
だから、欧米の音楽が偉くて、K-POPはなんか流行ってるけど意味分からないし、PerfumeやBABYMETALは凄い。AKBやジャニーズの音楽は薄っぺらいという発言になる。
困ったことに、サッカーはブラジルやスペインを指して「自らの手でサッカーを作ってきた」と言えるが、日本は自身でアイドルという文化を生み出しながら、未だアイドルという"本物"の定義を確立出来ていない。職業としてのアイドルにはなれたとしても、それは"本物"のアイドルではない。
しかし、「寛容」の文化において重要なことはそこではないことに気付く。「寛容」の文化の先、分析と再構築はあくまでも翻訳のための作業に過ぎない。翻訳する時にどのように日本人に合わせていくか、少し便利にしたり、新しくしたりしていくかということが、イノベーションのきっかけになっていることに注目すべきだ。
もしかすると、そのたった半歩先が全てをひっくり返す「発明」の可能性なのではないだろうか。