絵本から経済を考える 第7回 「鬼の経済学」 谷 美里
前回の連載では、貧困問題を扱った代表的な絵本2冊を紹介した。ひとつは、ウガンダの貧しい村に暮らす少女が、ある日一匹のヤギを手に入れ、それが彼女の運命を大きく変えることになったという実話を描いた『Beatrice’s Goat』[1]。もうひとつは、病気の母親の代わりに茶摘みの仕事に出た貧しい少女が、猿の恩返しによって滅多に採れないという最高級の茶葉を手に入れ、大金を得る『Cloud Tea Monkeys』[2]。どちらも2000年代の英米で書かれた(前者は米国、後者は英国)、現代の発展途上国を舞台にした物語だが、形式としては昔話でお馴染みの「長者譚」と「報恩譚」である。
日本昔話の「長者譚」で最もよく知られているのは、『藁しべ長者』だろう。来る日も来る日も熱心にお参りを続けていた貧乏な男が、ある日観音様から「最初に手の内に入ったものを、賜わり物と思って持って帰れ」[3] というお告げを受ける。帰り道に男はつまずいて転び、一本の藁しべを掴んだので、それを持って帰ることにした。途中で、男の顔のあたりをうるさく飛びまわる虻がいたので、藁しべで縛りつけ、それを小枝の先にくくりつけて持って歩いていると、そばを通りかかった牛車に乗った男の子がそれを欲しがった。男は「これは只今観音様からいただいて来た藁ですが、お子さまがお望みとありますれば、差し上げましょう」[4] と言ってそれを渡し、お礼に蜜柑を三つもらう。蜜柑はその後、それを欲しがる別の者の手に渡り、代わりに布を三反もらう。こうして男の持ち物は次々と変わっていき、終いには大きなお屋敷を手に入れるに至ったという話である。
この男が長者になれたのは、観音様のお告げにより手に入れた大切な藁しべを、それを欲しがる者のために快く手放したからである。『藁しべ長者』と同様の筋立ての『蜻蛉長者』という昔話では、観音様のお告げに「人のためなら何でもせよ」の一条が付加してある [5] ことからも明らかなように、成功の秘訣は「人のため」の精神である。「報恩譚」も同じだ。『笠地蔵』や『鶴の恩返し』など、「人のため」の精神で、他者(人間とは限らない)に親切にした者が、恩返しを受けて豊かになるという話である。
上述のような日本昔話の「長者譚」と「報恩譚」に共通するのは、「人のため」の精神をもって他者に接すれば、やがて報われ貧しさから抜け出せるというメッセージである[6]。これらは、大半の人々が貧しい暮らしをしている世の中で、貧しい人々の中から生まれた貧しい人々のための物語である。それは貧しき者たちの願いであり、倫理的な理想であった。だがもし、この物語が裕福な者の口から語られたとしたら、どうだろう。
物語というのは、同じ物語でも、誰が誰に語るのかによって、その意味合いが大きく異なってくる。例えば、「豊かさと幸せは関係がない、幸せになるためには、現状に満足することが大切だ」というメッセージは、貧しき者が貧しき者に対して語るのであれば、慰めにもなり、理想的な心の在り方として賞賛されるだろう。しかし、もしこれが、豊かな者から貧しい者に対して語られたとしたら、どうだろうか。豊かな者が貧しい者に対し、「豊かさと幸せは関係がない、幸せになるためには、現状に満足することが大切だ」などと発言することは、決して許されまい。同様に、「他者のために行動していれば、いつか報われて、貧しさから抜け出せる」という物語は、貧しき者たちの間で語られることはあっても、間違っても裕福な者が貧しき者に対して語るべきことではないはずだ。
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