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ロカストリレー連載③南島興「庭論への批判、そして庭師としての旅行誌」

新年度を期にスタートした、ロカストプラスのリレー連載。編集部員が交代で、月に一度エッセイを執筆します。第3回の担当は南島興です。

前回の記事(担当:寺門信)はこちら

 庭のような群れ?こうした理想主義は最近の人文系に見られるひとつの傾向である。しかし、ひとびとの群れは、そう簡単に庭にはなることはないだろう。前回の寺門信と、彼が参照した福嶋亮大のアイデアは庭に人間の社会を代入するというものであるが、これを実現させるには明確な困難がひとつある。それは庭師の立ち位置の不安定さをめぐるものである。たとえば、全体主義における統帥者の位置とこれは類似している。全体主義の場合、その理念を貫徹するのであれば、その全体のなかに統帥者もまた含まれなければならない。しかし、それでは統帥行為自体が成立せず、全体主義は失敗に終わる。庭師の場合、庭が社会だとすれば、庭師はそのなかにいなければならないが、庭を庭として成立させるためには庭師は外にもいなければならない。しかしそのときには社会のなかに庭師はいないことになる。この庭師の矛盾した立ち位置について庭論者は何らかの解を示さなければならない。すぐに思いつく理路としては、庭のなかで庭を整備してもなお、それを庭として成立させることだが、そのときにそれを庭として認識させる視点はどこから調達されるのだろうか。

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