【芥川龍之介「芋粥」理論】

これはたぶん何年も前から思っていたことなんですけど、初めて人に言うっていうか伝えようという試みをします

なぜなら説明コストが大きすぎるからです。

まず

・芥川龍之介の芋粥を知っている

という前提条件があり、そして多分、芋粥を読んだことない人に説明してもその質感みたいなものは伝わりきらないだろう。

しかしこの場を借りて
【芥川龍之介「芋粥」理論】
を提唱したいと思います。

ざっくりいうと、

『 ”足りなさ”はそれだけで付加価値である  』

ということです。

もう何回も何回もこういう場面に直面してきてそのたびに一人で
『・・芋粥。。芋粥。。』
と思ってきたので理解者が増えたら嬉しいです。

↓読めば何となくわかると思います。

【芥川龍之介「芋粥」理論】

まず芥川の作品である「芋粥」についてあらすじをまとめておきます。

時代は平安時代の元慶か仁和年間の頃。主人公の五位は摂政・藤原基経の役所に勤務する、風采のあがらない40歳過ぎの小役人である。彼は才覚もなければ見た目も貧相で、日ごろ同僚からも馬鹿にされ、道で遊ぶ子供に罵られても笑ってごまかす、情けない日常を送っている。
しかし、そんな彼にもある夢があった。それは芋粥を、いつか飽きるほど食べたいというものだった。
ある集まりの際にふとつぶやいた、その望みを耳にした藤原利仁が、「ならば私が、あきるほどご馳走しましょう。北陸の私の領地にお出でなされ」と申し出る。五位は戸惑いながらその申し出に応じ、彼に連れられて領地の敦賀に出向く。しかし、利仁の館で用意された、大鍋に一杯の大量の芋粥を実際に目にして、五位はなぜか食欲が失せてしまうのであった。(Wikipediaより引用)

…いや、めっちゃわかる。。
もっと説明しようと思ったけど、読めばわかるから説明終了ではだめでしょうか。

ものすごく焦がれていたもの、これさえ手に入れば・・と思っていたものも、手にしてみるとそこまで嬉しくない。期待値が高い分大きく落胆する、というか、この世に夢のようなことはない、この世は現実である、というあたりまえの命題自体にひどく落ち込む感じ、よくあります。考えてみたら食に関することだけじゃないですね。日常に溢れたことです。

楽しみで色々準備したクリスマスパーティー当日とか、テスト終わりの日とか、なんかそんなんばかりかもしれないなあ。

「芋粥」のこの理論自体もかなり面白いのですが、主人公の人物描写もかなり愛らしくシンパシーを感じてしまいます。

芥川龍之介の短編はほんとうに上手くてとにかく上手くて改めて読むと驚きがあります。

さて。このようにしてやっと言葉にしては見たものの特に伝わってない気がするし、どうでも良かった気がする…ああ…これも芋粥だ

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