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自己紹介
noteにアカウントを取得してから約3年、ようやく1つ目の記事をアップローしたが、自己紹介をしていなかったのでまず自己紹介。
茨城県出身、茨城県在住、2002年より家業を継ぐ形で建設業界に身を置き現在に至る。
音楽系に携わるようになったきっかけ
幼稚園時代
幼稚園の放課時間に園舎で「カワイ音楽教室」が行われていて、そこでオルガンを学んでいたのだが、如何せん子供の頃から根気がなかったらしく、片手弾きだけで満足してしまう子供だった。
鍵盤を両手で満足に弾くことができなかったため、その後に茨城県民文化センター(現在のザ・ヒロサワ・シティ会館)で行われた音楽発表会では、オルガンではなくなぜかパーカッションを任せられる。鍵盤を弾けなくともリズム感だけはあったようで、見かねた教室の先生が直前に決めたそう。
まともにオルガンを弾けるようになることなく幼稚園卒園を迎え、音楽教室も同時に志半ばで卒業。
小学校時代
1年生のうちに家族の事情で転校したことが2度あり、とうぜん友達はできずクラスで孤立してしまう。そんなわけで、低学年のうちは小学生らしからぬ非常に荒れた傷の耐えない学校生活を送っていた。
高学年になると、「部活動」と称して学校の放課後に行われていた特殊活動(当校では吹奏楽とバトントワリングがあり、集会や運動会等での演奏・演技、市民祭への出演などがあった)を行っていた。
音楽に興味はあったため、家族の勧めで吹奏楽に入り、先輩の丁寧な指導の甲斐もあり、ひと通りトランペットは吹けるようになった(所詮小学生の肺活量なのでプロトランペッターの桑野信義さんのような凄い演奏は無理だけど)
5年時に市民音楽祭の出演の際、吹奏楽に属しない児童も希望参加できるとのことで、先輩の計らいで折角ならトランペット以外もやってみないか?という話になり、トロンボーンとユーフォニアムを独学で覚えた。音楽祭へはトロンボーンでの出演となり、その後吹奏楽もトロンボーンでのパート参加となった。
(6年時の音楽祭では合唱での参加となったため、楽器は持たず)
中学校時代
小学校時代に所属していた吹奏楽の先輩に吹奏楽部への入部を誘われた。当時の母校の吹奏楽部はトロンボーンがおらずパートが不足だったらしい。しかし、当時は部員が女子しかおらず、その中に一人で入っていく勇気がなく、当時仲良かった友人とともに別の部活へ。
(結局イジメが原因で途中で辞めてしまうのだが)
音楽とはかけ離れていた生活をしてはいたけど、音楽自体はスキだったらしく、音楽の授業はとても楽しかった(音楽教師が自分を信頼し懇意にしてくれてたのは嬉しかった)
クラス対抗の合唱コンクールでは、最終年度に自分の指揮で最優秀を取れたのが今も自信につながっている。
高校時代
時勢もあり、当時は空前のバンドブーム。自分も例に漏れず、バンドを始めたいと思うのは自然の摂理。
しかし小学校の頃のトラウマで如何せん友人が少なく、なおかつバンドを一緒にやってくれるようにな友人なぞ存在するわけがなかった。
ちょうどその頃、小学校時代の同級生のお母様(うちの母親とも仲が良い)が、「うちの息子が使わなくなったベースあるんだけど〇〇くん使う?」みたいな感じで譲ってくれた。
ただで貰えるものなので、どうせ無メーカーのお古なんだろうと思ってケースを開けてみたら
「FERNANDES THE REVIVAL RPB-70 '57MODEL」
後で知ったのだが、フェルナンデス・ザ・リバイバルは1950年代の頃のヴィンテージモデルをイメージして作られたリバイバルモデルで、自分が譲ってもらったのは1981年頃の個体らしい。
ピックアップ周りとツマミがガリってしまって今はまともに使えないのだが、余裕ができたらリペアに出したいと思っている。
その他にもDTMに手を出そうと考えていたが、当時通っていた高校はバイト禁止で全く収入がなく、DAWを買えなかったのが今も響いている。
この頃には先の進路を考えるようにもなり、無謀にも音楽業界へ進みたいと考えていた音楽・芸術系大学への進学を考えたが進路指導の先生に「無謀だ」と言われ結局普通の大学に進学することに。
大学時代
高校までは「何かに押さえつけられて」いて、イマイチ音楽へ踏み出せていなかった自分の風向きが変わり始めたのが大学に入ってから。
幼稚園時代からの幼馴染に加藤紀子のFCイベントに誘われ一緒に入った事がきっかけで、それまであまり見向きをしてこなかった「アイドル」というジャンルにハマることに。
当時は「小室ファミリー」及び「沖縄アクターズスクール」出身のアイドルが席巻していた時代。自分も例に漏れず、MAXやSPEED等にハマっていくことになるのだが、グッズを買い集めたりコンサートに行ったりという事をせず、いい環境で音楽を聞きたいと考え、大学生の少ないバイト代にも関わらず音響の環境を整える方向に行ってしまう(これか今の原点とも言える)
大学時代の後期に、アルバイトで入った小さなライブバー(15人も入ればいっぱい・現在はもうない)でミキサー操作を覚えた1️⃣。大学卒業までは、スーパーでバイトする傍らそこでもバイトしたが卒業と同時にバイトも卒業。(バイトと言ってもほぼ個人的なお手伝いに近かったが)
大学卒業以降~
家業を継承する形で現在の職に就く。
ただ学生時代とは異なり、時間的にも経済的にもある程度自由が利いてくるようになった。そして時代はモーニング娘。が飛ぶ鳥を落とす勢いでメディアに登場しているご時世。
ただ、当時は現在(2024年)のように気軽にコンサートへ行けるような状態ではなく、百戦錬磨の猛者たちが集う魑魅魍魎とした世界に自分が足を踏み入れられるようになるには、もう少し時間がかかった。
2002年頃から徐々に会場に足を運ぶようになり、2004~6年頃はわりと毎週末のように会場に行っていたような気がするが、2007年に推しの卒業で一旦現場を離れることに。
地下アイドル運営へ
会場へ行かなくなって少し手隙になったとき、昔の友人に誘われて、今で言う「地下アイドル」の運営のお手伝いを2008年からすることに2️⃣。
自分は幼稚園や高校時代で前述した通り、楽器に触れても人様に聞かせられるような満足な演奏はできないので、プロデュース面以外でのお手伝い(チェキの撮影や運転手など)を主にしていたが、大学時代のバイト経験1️⃣が生きてミキサー操作はできたので、野外イベ等では意外と重宝した(らしい)
当時の時勢もあったと思うのだが、最近のような殺伐とした雰囲気はなく、良質なファンにも恵まれ、至って平和な活動だった。面倒を見ていた子たちの進学や就職のタイミングが重なり、3年ほど活動し2012年春に解散。
解散時に「どんなグループ名で・どこで・どんなメンバーが・どんな活動をしていたか?は
解散後は大っぴらにしないでほしい(地下アイドルをやってたという事実だけ公表OK)」と
当時のメンバーと約束をしたため詳しい事は書けないのが非常にもどかしいのだが、転生するなり、
新生活を迎えるなり、今も元気に頑張っているところを見るとても嬉しい。
(就職しました!結婚しました!という連絡が来るとホントに泣ける)
地下アイドルを面倒見ている間も、自分は細々と会場には足を運んではいたが、基本単独行動であまり長居せずすぐに帰るなどしていたので、大っぴらにしてはなかったけど、中には気付いた人もいたと思う。
(もちろん当時のメンバーにはハロプロ見てることを内緒にしていた)
再びハロプロへ・・・
2011年春、東日本大震災があって、1年くらいは震災復旧工事のため本業である建設業が忙しくなり、面倒見ていたグループのメンバーも受験勉強や就職活動等で多忙と重なり、2012年春に解散し再び手隙になる。
地元で仕事してる都合上、もっと地元にも目を向けるべきだと考えた。同じ頃、地元の商工会議所青年部や地元の有志が「ご当地アイドル」なるものを立ち上げ始めてる時期で、視察を兼ねて見に行くことに。そこで現在も交流を続けている多数の友人たちと知り合うことができた。
この頃には多少余裕ができて、モーニング娘。をはじめとしたハロー!プロジェクトの会場の方にも行けるようにもなった。
DJ活動
2012年秋頃、ご当地アイドル視察の会場で同世代の人物AZ氏と知り合う。
(今後の自分を変えるキーパーソンである)
元来はモノノフ(ももクロのファン)であるが、昭和歌謡好きで世代も近いということで意気投合する。彼も幅広い音楽好きで、地元の音楽イベントには頻繁に顔を出しているという人物である。
そこで彼がDJ活動を始めイベントを主催するという話を聞く(現在もイベント主催は続けている)
その後に見たDJダイノジのDJイベント「ジャイアンナイト」の影響もあってか、前述の彼とDJダイノジに半ば影響される形で自分もDJに手を出す3️⃣
同じ頃、モーニング娘。が14年ぶりに茨城県内でコンサートを行うということで、茨城大学や筑波大学のアイドル研究会の学生たちと交流を持つようになる4️⃣
昔取った杵柄
その後は普通にコンサートへ行ったり、時折DJをしたりするくらいで特筆すべきことはしていなかったが、その流れが変わったのが2015年の終わり頃。
いつものように地元で活動するアーティストやアイドルのステージを視察がてら見に行くと、そこにいたイベンターさんが周囲の人に「急だけど音響できる人いないか?」と訪ねて回っていた。詳しく話を聞いてみると、来ていた音響さんが急用(ご家族の急病とかだった気がする)で帰ってしまったらしく、後2組分の音響をどうにかしないといけない・・・という話になり、自分も1️⃣の経験がありミキサー操作はわかるので、大学時代ぶりに音響を触ることに5️⃣。
そこに出演していた演者も、ご当地アイドルを視察していた頃に見ていたアーティストだったため、ここで2️⃣の経験も生きてくることに。
定期DJイベント
話は前後するが、学生たちが皆社会人になり環境も変わって、ちょっとさみしいなと思ってたところに数年後、 4️⃣で知り合った彼に「ハロプロオンリーDJされてるんですよね!イベント出ませんか?」と誘われる。 その彼こそ、2016年に第1回目が始まり、2024年現在も続いている「H!PTUNE」の主宰いがり君である。
また、定期のDJイベントをはじめたことで音響機材に触れる機会が大幅に増えてきたのだが、そこでも1️⃣の経験が大きく活きた。またDJをしていることを地元の友人に知られるようにもなり、それが地元イベンターの耳にも入り始めるようになる。
イベンターさん
以前と同じように前述のイベンターさんが主催するイベントを見に行っていた2017年の秋ころ、そのイベンターさんから「定期的にイベントをやりたいんだけど、機材は出すから音響を任せられないか?」というお話をいただく。
連絡先は特に教えていなかったのだが、5️⃣で急遽行った音響が良かったらしく、「あの人はだれ?」ということで話が回り回って自分のところにやってきたようだ。
ただこのイベンターさんはあちこちに顔が利く御方らしくて、後々の自分の活動において重要なウエイトを占めるように成るのは言うまでもない。
2020年以降はコロナ禍にもかかわらず(コロナ禍だからこそ?)地元のイベンターさん経由で東京や地元外のイベンターさんにも知られるようになったが、2022年以降は地元イベンターさん経由ではなく、地元外のイベンターから直接イベント全般を任されることも多くなった。