それが去った今思うこと
夏が終わろうとしていた。9月の下旬、残暑が三日間続けてなんとか最後の力を振り絞った翌日。太陽の光には柔らかい白のフィルターがかかっていた。町はぼやっと照らされていた。影の色は薄くなり、輪郭は曖昧になった。
その日、我々はレンタカーで千葉県を東に向けて走っていた。その行きの車の中で(たしか高速道路の終点を降りてすぐのころだったかと思う)、我々は突然にそれがもうそこにいないことに気がついてしまった。いや、正確に言うならば気がついたのはもっとずっと前で、ついにそれを思い知ったとでも言うべきであるか。
あの頃、それはまだすぐそこにあって、手を伸ばして触れればそれがそこにあるという確かな実感を持っていた。縁側に差し込む夏の西日のように、サーフィンのあとの濡れた身体を包む風のように、昼飯に食うそうめんのように、なんでもないものだがそっと優しく寄り添っている小さなもの。
そういうものとして、それは我々のすぐ横にあった。常に。
それはそれとして意識されることもなく、日常の中に溶け込んでいた。とても自然に。
それがいつか去っていくかもしれないことを、我々はずっと前からわかっていた。もしくはわかっていたつもりであった。しかし、ふと気がつくと、それはいつの間にか我々の横にはいなくなっていた。
そこには前触れも、兆候も、予感もなかったように思う。いや、もしかするとその前触れ・兆候・予感はあまりにもそれが長かったがために、前触れ・兆候・予感としての機能を失っていただけなのかもしれない。しかしまあいずれにせよ、それはもうずっと前から我々の横にはいなかったのだ。少なくとも、前と同じようには。
ということを、我々は千葉を東に走る車の中で突然に思い知ったのである。
それは我々の横からは去っていったが、たまにふと町で、山で、海で顔を合わすことはあった。しかしそこにはあの頃の親密さはすでになく、そういう時それはよそ行きの服を着て、よそ向けの顔をして、当たり障りのない話しをした。そしてなんだかひどく居心地が悪そうで、それをあまり隠そうともしなかった。
それでも我々は久しぶりに会うとあの頃の親密さを思い出すための努力をした。でも、本当にそれがくつろぎ始めるまでには長い時間を必要とした。ある時には会っている間にその親密さを思い出すことができず、ぎこちなく過ごした末にずっと後になって一方的な親密さを懐かしさとして思い出すことになった。
たまに再開するそれには始まりがあって真ん中があり、そしてちゃんと終わりがあった。暗黙のルールがあり、できることは限られていた。たまに感動することもあったが、それは把握可能な感動で、我々の日常を、生活を揺さぶるようなことは決してあってはならなかった。どんな場合でもだ。
それが我々のもとを去ってしまった今、思うことは、それが横にいた頃我々はとても楽しく日々を送っていたという記憶である。
では、どうしたらそれは我々の横に戻ってくるのか。
あの頃だって全部が全部楽しかったわけではないし、中には辛いことも目を背けたくなるようなことも確かにあった。それに何が正しいだとか、正しくないといった話しではないし、それがそこに常にあることが幸せであるとも限らない。
ただ、それが自然に自分の横にあって生活の中にあるということは、そうでない場合と比べて、楽しさの大きさは大きくなりやすいということは確かであると思う。そこにはある種の辛さがつきまとうものだが、喜びが深いとき、憂いはいよいよ深くなるものだ。
だから、それが横にいないと気がついて尚それに戻って欲しいと願う我々は、それに会う時間をつくるのではなくそれの中で日常をつくればいいのだ。つまりは、今我々が考えるべきことは何をしたいのかではなくて何を好きなのか、ということである。