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子育てで「ダメ」のハードルを下げてみた話

息子がわたしのモンブランの上の栗がほしいと言った。栗好きのわたしにしてみれば「人様にモンブランの栗を要求するなんて狂っている」という話だ。でも、息子にとっては「これ食べたことあったかな?どんな味かな?」程度の代物である。

数秒考えて、確かこのモンブランは中にも栗が入っているから、ケチケチせずに息子にあげることにした。その栗を食べた息子の反応はイマイチだったので、やっぱり自分でありがたくいただけば…と一瞬頭をよぎった。しかし、徳を積んだと考えれば、そんな小さなことは気にしてはいけない。

大きなことだろうと、小さなことだろうと「いいよ」と言われれば、息子は喜ぶ。「ダメ」と言われれば、どこかさびしかったり、反抗したりしたい気持ちになる。それは、息子が幼いころから12歳になった今も変わらない。これは息子に限らず、大抵の人間がそうだろう。

少し前に「(ビデオ)ゲームしていい」と息子に聞かれて、普段なら「ダメ」だという時間帯だったけど、「まあ、今日はいいか…」と思い「いいよ」と言った。すると、本人も予測していなかったのか、驚きと喜びが入り交ざった非常にいい笑顔で「ホント⁉やったぁー」と小躍りしていた。

もし、ただ「ダメ」と切り捨てていたら、息子はただ諦めたかもしれないし、多少ふてくされたかもしれないし、何とかゲームの権利を得ようと挑んできて、最終的にわたしをイライラさせたかもしれない(割とよくある)。少なくとも笑顔にはならなかっただろう。

わたしはときどき意識して息子に対しての「ダメ」のハードルを下げる。

これは、息子が2歳か3歳の通称イヤイヤ期と呼ばれるころに始めた。あるとき、1日に息子に対して「ダメ」という回数が、「いいよ」という回数に対して多すぎることに気がついた。そこで、彼のしていること、彼のしたいことは、本当に「ダメ」なことなのかを、息を吐くように「ダメ」という前に、一瞬考えてみることにしたのだ。

すると、わたしが譲歩や工夫すれば「いいよ」に変換できる「ダメ」もけっこう多かった。もちろん、本当に「ダメ」なことは「ダメ」なままなのだけど…。「ダメ」を減らしたおかげか、もともとも息子の性格が幸いしたのかはわからないけど、あまりイヤイヤ期というものがなかったと思う。

実際に「いいよ」と「ダメ」の回数を数えたことはない。でも、「いいよ」の数のほうが多い方が、お互いに気持ちよく過ごせることに間違いない。また、本当に「ダメ」なときの「ダメ」が響きやすくなる。

栗1つからの満足よりも、栗を諦めて得られるもののほうが大きいこともあるのだ。


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