結婚する前にもう一度
彼は非常にマイペースだった。約束の時間に来ないのは当たり前だったし、ドタキャンすることも珍しくなかった。
「今、富士山に向かっているから」と、わたしとの待ち合わせの時間を過ぎてから電話で宣言されたときは、開いた口がふさがらなかった……。それまで、「ご来光を見るのが夢だった」なんて一度も聞いたことがなかった。わたしたちは、富士山からはかなり遠い場所に住んでいた。
わたしと彼が出会ったとき、わたしは学生で彼は社会人だった。お互いの家までは車で10分ぐらいの距離で、会いたければいつでも会えた。だから、遅刻もドタキャンもある程度は許せた。
付き合ってから2年半がすぎたころ、わたしが就職をして会社に近い街へ引っ越すことになった。二人の家の距離は少し遠くなった。車で片道1時間ほどの距離。遠距離恋愛というほどではないけれど、勤務形態が違ったから、なかなか会えなかった。そのうちに、気持ちも何だか離れてしまった……。お互いキライになったわけではなかったけれど、わたしたちは別れた。
それから3年ぐらいが過ぎたころ、友達から彼が結婚することを聞いた。別れてから彼に連絡をしたことはなかった。けれども、何だか急に彼と話がしたくなった。コードレスのボタンを押すまで何度もためらった。ボタンを押す指が震えた。「結婚する直前の元カレに電話をするなんて最低」と批判する人もいるかもしれない。それでも、もう一度、話がしたかった。
彼は電話に出るだろうか?
今さら電話をして迷惑がられないだろうか?
呼び出し音の5回目が鳴り終わる直前に「もしもし」と懐かしい声が聞こえた。わたしは、すぐに声を出すことができなかった。彼が2回目の「もしもし」を言おうとしたときに、何とか声を絞り出して名前を伝えた。「おー、久しぶり!」といった彼の声は、驚きで少しうわずっていた。
「結婚するって聞いたよ。おめでとう」
「あ、ありがとう」
誰から聞いたかは、言わなくてもわかったと思う。わたしが知っている彼の友達は少なかったから。
別れる前の数か月は、電話中に無言になることが多かった。けれども、このときの会話はすごく盛り上がった。二人には、出会ってから別れるまでと同じぐらいの空白があったのに。時間がいろいろなことを解決してくれたのだろうか?
「ごはん食べに行こうか」と言ったのは彼のほうだった。
わたしたちは、彼が結婚する前に一度だけ会うことになった。
カジュアルなイタリアン・レストランでの夕食。お互いの近況を話したり、「ふつうの人は、突然、富士山に登らないよね……」なんて思い出を話したり。
奥さんになる人は彼よりも時間にルーズで、彼は待たされる人の気持ちがわかるようになったとも。いくつか彼女の豪快な遅刻エピソードを披露してくれた。確かにひどい。けれども、はにかみながら彼女の話をする彼は、すごく幸せそうだった。
「いい出会いがあってよかったね」とわたしも笑顔で祝福した。
「待たせてもいい女」と「待ってあげたい女」か。
前者は恋愛で終わった。もし、わたしが後者だったら、彼と結婚していただろうか……。
わたしたちは、たくさん話して、たくさん笑った。けれども、別れてからしばらくの間、「また電話がくるんじゃないかと思ってた」と彼から聞いたときだけは、少しせつなかった。わたしも同じ期待をしていたから。
焼け木杭に火がつく前に、わたしたちはそれぞれの車に乗り込んだ。
別れ際に「新婚旅行のお土産買ってくるね」と彼は言った。そんなことは社交辞令だろうと思っていたら、それから1か月を過ぎたころに彼から連絡がきた。
「ハワイのお土産、届けに行くね」
そうだ、彼はマイペースで時間にルーズだったけれど、とても優しくて律儀だった。そんなところが好きだったんだっけ……。
彼がお土産を届けに来た日は、わたしが一人暮らしをしていたワンルームのアパートを引き払う日だった。わたしと彼はこの部屋で、たくさんの甘やかな時間をすごした。彼を待っている間、彼との時間を振り返ってみた。淡い光の中でよみがえる懐かしい日々。べつに未練があるわけではないのだけど。
引っ越し業者に荷物を引き渡してガランとした部屋に、彼は時間どおりにやってきた。嬉しいような、少しさびしいような……。
彼が部屋にいたのは30分間ぐらいだったとおもう。新婚旅行のお土産と「前よりもいい顔してるね」という少しキュンとする言葉を残して、彼は帰っていった。
ひとりになってから、お土産の包みを開けてみた。アイスワインだ。「MADE IN CANADA」と書いてある。ハワイへ行ったのに……。「あいかわらず天然だな」とわたしはアイスワインの箱に向かってつぶやいた。
もし彼に「どうしてアイスワインなの?」って聞いたら、「だってお酒好きでしょ」と子どもみたいな笑顔で答えたに違いない。
お土産をもらってから1週間後、わたしは成田空港発のトロント便に乗り込んだ。ちなみに、あのアイスワインのボトルは、もらった日に親友と二人でカラにしてしまった。
「甘い……」
アイスワインを飲んだのは、それが最初で最後だ。ただ、酒屋であの箱を見かけると、彼の笑顔をふとおもい出すことがある。
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