静寂をもって語り合う
小説の巻末に付される解説。読み飛ばす人がほとんどだろうか。だとしたら、もったいない。名著にはやはりそれに相応しい名解説もついてくるものなのだ。ときとして、解説には本編に負けず劣らずの名文が隠されている時がある。
私の書斎のいろいろながらくたものなどいれた本箱の引き出しに昔からひとつの小箱がしまってある。それはコルク質の木で、板の合わせめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはってあるが、もとは舶来の粉煙草でもはいっていたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合いがくすんで手ざわりの柔らかいこと、ふたをするとき ぱん とふっくらした音のすることなどのために今でもお気にいりのもののひとつになっている。
これは、中勘助『銀の匙』の冒頭の文である。五感を刺激する文章を書くというのは、途轍もなく難儀なものである。詳述を試みて多く言葉を記せば、まとまりがなくなりぼやけてしまう。下品にさえなってしまう時もある。逆に可能な限り寡言を貫けば、言葉足らずで事情が伝わらない。冒頭の文はどうだろう。箱の質感、質量、時間、色、匂い。余計な言葉の一切を容赦しないような洗礼された文章なのに、(否、そうであるがゆえにだろうか)その静けさがより多くを語っているように見えるのはなぜだろうか。
ぱん、の前後に鉤括弧ではなく空間があいていることも美しいし、ふたの「ふ」、ぱんの「ぱ」、ふっくらの「ふ」と、は行の音が流れるように続くのも美しいし、ひらがなに開いた文字のたゆたうようなかたちも、美しい。
この文章は、この『銀の匙』に付された川上弘美による解説の一文である。
川上の文章を読んで、ふとこう感じた。私にとって梶井基次郎が色彩の人なら、中勘助は「音の人」なのかもしれないな、と。
先をちょいと油にしましてずっぷりと沈んでいる古いののそばへ並ばせるとぱりぱりと火花がちって火がうつる。
夏は虫屋の店に気をそそられる。扇、船、水鳥などの形をした虫籠に緋色のふさをさげてりんりんれんれん松虫や鈴虫を鳴かせている。きりぎりすは戸をひくように、くつわ虫はかさこそとなく。
行灯に火を灯す所作、虫の音。他にもお祭りのにぎやかさ、動物たちの挙動。音の表現はものごとの状態や所作について、言葉少なにしてより多くを伝える。
流れだって美しい。「ちょいと」から「ずっぷり」へと移って「ちりちり」という音へと帰着していく、この心地よさ。この一連の音の流れが、行灯を灯すまでの淀みない所作に重なっていくような気さえしてくる。
「りんりんれんれん」の涼しさから、「戸をひくような」鋭い高音を経由して、最後は「かさこそ」という硬く軽やかな音への道筋。
文章のところどころに散らばる擬音、擬態は読む者にリズムを与えてくれる。展開が、空間が広げられ、時間は動いて、それらすべてに緩急がつく。それ自体では何も意味はない。人によって異なる事物が代入可能な入れ物でもない。そうでありながら、ひとたび文章に紛れると、多くを語らずして、饒舌より豊かに語る。ただし、それもうまく使わなければ文章はどうもガキ臭くなる。
文章の醍醐味は、記号から連想される表象を追うだけはない。音として知覚される美しさに惹かれるのもまた、文章の面白さでもある。冒頭の「ぱん」という語感がいかに箱について多くを広く語るか。そして、そのことを幾文かで凝縮して言い表してしまう解説者の腕も光る。静寂に静寂をもって応える。本文と解説との時を超えた応酬。それは、解説者の技ゆえか、はたまた、時間が経てど衰えぬ作品の妙ゆえか。
いずれにせよ、小説の名解説を見つけるというのは、楽しさの尽きぬものである。来年は、誰かと小説に付された名解説を語り合うという悪趣味に興じるのも悪くないかもしれない。
年の瀬というのはおもしろい。この時ばかりは誰もが今を忘れ、過ぎ去った時に思いを巡らし、未来に祈りを捧げる。
川上の解説は、「言葉を、そして、この世界を愛することを知っている、一人でも多くの読者に、本書を手にとってほしいと、心から願う。」という祈りで締めくくられる。私は果たして世界を愛することができているだろか。断言し難い。しかし、世界に満ちる言葉を、音楽を、愛していることは間違いない、と思う。
一人でも多くの者に届くようにと、祈りを捧げずにはいられないようなものに、これから先どれだけ出会うことができるだろうか。来年もまた、この世界の素晴らしいものたちに巡り合えるよう。美しいものに出会えるよう。沈黙をもって祈りを捧げてみようか。
あぁ、だめだ。やはり難儀。恐ろしや、恐ろしや・・・。
2020年 巡る年の瀬、雪化粧から
さんぴん倶楽部 古河 巡/Meguru Furukawa